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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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『一坪反戦通信』
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 第171号(2005年9月28日発行)

座間〜辺野古


 18年前、沖縄出身の外間三枝子さんと知り合った。私と沖縄との出会いがそこから始まったと言ってもいいだろう。基地問題を抱える座間市に越してきた翌年だった。

 電話の声が米軍機の爆音でかき消され、平穏な生活の中に基地の存在を実感させられる毎日。当時小学2年生の息子と4歳の娘が思わず小さな両手で耳を塞いでいたのを思い出す。

 外間さんとの親交が深まるにつれ、彼女の出身地である沖縄の話を聞く機会も増え、1坪反戦の活動をしている事を知った。彼女の沖縄に対する単なるノスタルジアではない熱い思いが、私の気持ちを徐々に沖縄へとかきたてていった。

 子供が小学校に入り、PTA活動に奔走する日々が続いた。お陰で、人権問題や反戦をテーマに発表や講演会を企画することができた。中でも、沖縄の民族衣装に身を包み、歌と踊りを混じえ沖縄戦を語りながら反戦を訴え続けていた仲吉さんの講演は忘れられない。子供たちの心にもしっかりと焼きついたことだろう。

 ある日、こんな事があった。小学生になっていたかどうか幼い娘を連れて近くのテイクアウト寿司店に入った時、すでに商品を受け取り店を出ようとしていた先客が、我々に視線を向けたあと店の外で待っていた。オートバイに跨った大柄な男性は、迷彩服に身を包んだ米兵だった。娘の手を強く握り締めながら平静を装い店を出ると、彼は「これは、日本とアメリカの友好のしるしです。どうか受け取ってください」と言いながら、自分の胸につけてあったバッジを娘の手に渡した。それは、日本の国旗とアメリカの国旗が交わったデザインのものだった。すぐに状況が理解できずにいたが、彼の目は優しげだった。あとで思い返してみると、彼にも同年齢の娘がいたのかもしれない。

 人は皆、個では弱く優しい。それがどうして国という単位になると塀を作ってしまうのか。戦争という最悪の手段で人や自然を破壊してしまうのか。娘が受け取った小さなバッジが、その後私の心の中に忘れられない出来事となっていった。

 そんな頃、念願の沖縄行きが実現した。沖縄を知れば日本が見えてくる。上空からの沖縄は想像をはるかに超える美しさだった。石垣、西表、竹富等々、どこまでも青い海と空と珊瑚礁。豊かな自然、純朴な人々、この美しい島こそ日本の宝ではないか。沖縄から基地をなくさなければならないという強い思いが、胸の中に広がっていった。その後、幾度となく沖縄を訪れることができ、私にとって大切な地となった。

 辺野古での米海兵隊の新基地建設に反対する行動が続く中、8月に友人たちと参加することができた。この海にジュゴンがいる。もう少し頑張れ。ボーリング調査用のやぐら、漁港に隣接するキャンプシュワブの有刺鉄線、座り込みを続けている日焼けした人たち。戦争へとつながる滑走路を作らせてなるものかと命がけで戦っている。涙がこぼれそうになった。

 座間に帰り、辺野古での思いを抱えたまま9月4日の、防衛庁を取り囲む人間の鎖による抗議行動に参加した。強権を誇る建物を眼前にそのスケールに圧倒されていた時、防衛庁正面に横付けされた車上からマイクを通して「もうこれ以上、沖縄を苦しめるな」という声が響いた。一坪反戦代表の金城さんだった。胸いっぱいに詰まった思いをマイクを握り締めて話していたのは命を守る会の宮城さんだ。辺野古で瀬戸際の戦いが続いている事が少ない言葉の中に重く伝わって来た。色鮮やかなのぼりを掲げて、参加者600人を越える人たちがしっかり手をつなぎ、人間の鎖は2回に渡って全員の心を一つにした。

 防衛庁へ渡した嘆願書はただの紙切れではない事を、平和を願う魂の叫びである事を伝えられただろうか。

 基地のない沖縄、基地のない日本、そんな日は来るのだろうか。全力で戦おう。沖縄の美しい海を壊される事なく子供たちに残すために。

(T.Y.)