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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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『一坪反戦通信』
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 第171号(2005年9月28日発行)

9・4 交流集会アピール


大西照雄(ヘリ基地反対協代表委員)


 皆さん今晩は。今日の行動は大変ご苦労さんでした。

 僕は、この1年間強調してきたことは、あらゆる団体個人がこの首都圏において共同して行動していただきたい、それが大きな力となっていくだろうというふうなことをいつもお願いをしてまいりました。今日はその第一歩が築かれたのではないかというふうに思っております。

 ところで、個人的なことですが、7月29日以来私のホームページ「宝の海」が実は消えたようでして、多くの人たちから大西は挫折したんじゃないか、あるいはあいつ病気になっちゃって今何もしていなんじゃないかと色々心配をかけております。実は機械が故障して直しきれないでいるんで、やがて改善して発信をし続けていきたいと思います。

 この闘いの中で、多くの人たちがメールやインターネットで発信を続けている、それが非常に国民的広がりを持ったのではないかと私は思います。

 9月2日、あの単管ヤグラが全部撤去されました。これについては喜んでいいのかどうかわからないんですが、私たちはこういうふうに捉えていいのではないか。この1年間の全国の思いが一つになって小さな勝利だと。小さな勝利なんだというふうに認識をしたいと思います。というのは、業者、防衛施設局、そしてヘリ基地反対協も含めてこの作業日程についてテント村で交渉いたしました。最後に防衛施設局の担当、中村というのが僕にこう言いました、「来週から仕事を始めるよ」と。ですから、決定的な勝利は、やっぱり小泉あるいは閣議決定によってこのボーリング調査を中止すると言うまでは、私たちは闘いを続けなくちゃいけないと考えています。

 この撤去の作業中、9名の初めてカヌーに乗る青年たちが海上で訓練を始めました。私たちのこの闘い、非暴力主義、完全非暴力だと言っております。そしてそれは海での闘いですから、海のシンボルであるカヌー、これを大事にしてこれから多くの人たちを訓練していきたいと考えています。昨年の9月9日からの海上の闘い、本当に私たちにとって予想もしない熾烈な闘いでした。本当にその時に泳げない人たちがいっぱいいたんです。よくああして海に出たなあと。例えば、写真家の浅見裕子さん、私が10隻カヌーを曳航しながら行ってたら引っくり返ったんですね。転覆しちゃった。何を叫んだか、「私泳げないよ!」。あれはびっくりですね。例えばえつみさん、第3単管の司令長官ですが、72歳ですが彼女は泳げなかったんです。こんな人がたくさんいるんですね。

 泳げなかった彼女たちが、あるいは彼氏たちが、多くの人たちがあのヤグラの中に登ってあの海の世界を見ていく、そして浸かっている間に自然に泳げるようになったんです。泳げない人是非辺野古に来てください、すぐ泳げます。それは何かというと、大事なことなんですが自然の大切さや自然の豊かさ、やはりあのヤグラの中で闘っているうちに人間が自然と一体となっていく、この力。これが本当に泳げないという人たちがごく自然に泳げていく。そしてその中であの海底のすばらしさを知っていくことが一つの力となって持続が始まっていく。

 名前を言っていいのか与那覇さんという、皆さんが行くと中々目立ちません、彼は03年4月泳げませんでした。だけど今、彼は65歳になると思いますが、毎日朝第1単管ヤグラまでをカヌーを漕いで今でも行きます。彼の思いは、この単管ヤグラが撤去された時に、また再び防衛施設局が単管ヤグラを設置するそのために体力の維持を日常的に彼は考えている。この愚直な姿。

 僕は沖縄の基地問題は三つの時期に分けることができると思います。一つは沖縄戦の時期の本土攻撃基地としての米軍が作ったもの。第二期が1952年のサンフランシスコ条約によって沖縄を切り離して、まさに銃剣とブルドーザーと言われる今の基地、そして現在の辺野古に現れる基地建設。第2期に頑張った阿波根昌鴻さんたち、あの大先輩たちの生き様を私たちはこの第3期の辺野古の闘いに、一つの遺産としてこれを実践行動として完全非暴力という方針を掲げて今闘っているというふうに思うんです。

 その中で、この第3期の持つ意味です。私たちは、よく数名の人たち、私と同じように団塊の世代から上の人たち、皆こう言います、「シジンシナラン」。つまりこの基地を作られたら死んでも死に切れないんだという言い方をする人が少なくありません。私もその思いです。

 今度の再編成の中での特徴は、地元の人が地元自治体が認める認めないということを基準にしています。小泉は、あちこちで自治体が反対しているからと。これは今から作られる米軍基地を、彼らはそこから出てくる被害から回避したいんですね。例えば、この間米軍調整官がこう言いました、「基地の周りに沖縄県民が住んできたんだ何を文句言うか」。これ基地接近論と言います。例えば爆音訴訟の中で原告足りうるかという場合に、基地が出来てから後で来た人たちは原告であり得ないわけですね。これは何故かと言うと危険な基地の所に自分たちが来たのだから、だから原告ではないんだと。

 今、この基地、岸本建男や稲嶺恵一知事が基地を誘致した。そうすると基地被害が起こった時に、自ら誘致したのだからあなた方に訴えの権利はないと。私たちが自分たちの子供や孫の世代にこんな負の遺産を残す、これはやっぱり死んでも死に切れないですよね。ですから、この辺野古に基地を作らせてはいけない、あるいは県内のどこにもたらい回させてはいけないという、今、各自治体、嘉手納町を始め各自治体が反対しているのは、やっぱりそういう危機感があるんだろうと。

 全国的にも厚木のF18を岩国に移す、多くの自治体が反対している。それはやはり自ら誘致した時に抵抗権や生存権を失っていく、しかも自民党の憲法改正案の人権規定の中にこんなのがあるんですね、「公益と公の秩序に反しない範囲内において人権を認める」と。例えば基地の爆音訴訟の中で国が取っている論理は、公益論です。その公益論に立ってなおかつ「公の秩序に反しない」。基地に反対する、運動するのはパクりますよということですね。私たちはこういう時代の中で辺野古に基地を建設することについて、やっぱりこれは単なる一地域、沖縄と言う一地域の問題じゃなくて、日本国民が生きる、平和に生きていく問題とものすごく関係があるんだろうと思います。

 今、辺野古の闘い、確かにヤグラは撤去されました。だけどさっきも言ったように、閣議決定がきちっと下るまでは闘いを持続していかなきゃならないと思います。この運動、私は第1期、第2期、第3期と言ったけれども、第2期の銃剣とブルドーザーで沖縄で基地がどんどんどんどん取られていく時に、1955年1月13日、実は一つの大きな事件が起こります。1955年、沖縄において米軍が基地を強奪し人権を抑圧していることを伝えたのはアメリカからです。アメリカの牧師たちから日本の人権協会みたいな所に手紙が来るわけです。この手紙は朝日新聞に全部載ります。これは大変有名です。その時に伊江島の阿波根昌鴻さんたちを激励したのは、一人の少女でした。一人の高校生です。これは沖縄伊江島のタッチューの上に沖縄の太陽、あるいは沖縄の天使、黒田操子の碑というのが立っています。

 私が言いたいのは、40数年も経って今日、この辺野古の闘いに日本各地からまさに沖縄の太陽、あるいは沖縄の天使と言ってもいい若者たちがたくさん結集してきているということです。あの第2期の時代とこの第3期の時代の大きな変化は、日本の各地において青年たちが辺野古へ辺野古へという運動が起こっている、京都の三条河原町、大阪の梅田、今日東京新宿の報告がされました。こういう青年たちの思い、そこにこの多くの青年たちが結集しているこの力を非常に誇りに思います。

 辺野古のオジー、オバーたちと付き合った若者たち。何万と言う人々がこの辺野古に訪れました。そういう愚直に頑張っている人たちと心を共有した青年たちが、やはり次々と生まれ、そして彼らが真剣になって単管ヤグラの中からメールを送り、いざという時に防衛施設局が何か大きな攻撃を仕掛けてくる時に、この青年たちのメールが多くの人たちに伝わりながら、そしてまた盛り返してくる。

 辺野古の闘いは、ある時は停滞の時期もあります。しかしそれを、常に私たちは克服してきたと考えています。青年たちが行ったメールや或いはインターネットに、疲れた中で家に帰って自分のホームページを使ってそれを全国に発信していく、この闘いの中で多くの人たちが努力をしている。マスコミが今日、本当に権力に対して、昔の日本の新聞が大本営発表ですが、今は安保に従属したまさに日本のジャーナリズムの世界だと思います。ジャーナリズムが再編成の最も大事な根幹の部分である辺野古の問題を伝えない中で、多くの人たちがメールやインターネットを使って発信を続けている。そしてそれが世界の心ある人々に伝わっていく。

 今、辺野古には多くの国から、外国の平和愛好家や宗教者が集まります。私はこの闘い非常におもしろいと思います。神を信ずる人も信じない人も結集しているし、キリスト教で言えばカトリックもプロテスタントも違いを超えて結集をしている。僕は宗教の統一戦線みたいなことをよく言っているんですが、例えばブッシュの教会、この間辺野古に来ていました。ブッシュを俺は叱るんだと言っています、牧師の皆さんはね。そういう色んな形で広がりを持っているこの辺野古の闘い、これをもっともっと大きくして、マスコミが本当に反省をし政府を追い詰めていく、政府のやっているでたらめさを国民の中に知らしていくようなマスコミを育てていかないといけないと考えています。

 この闘い、僕はこう思います。毎日同じようなことをしてるかもしれない、あのヤグラに座って一体俺は何をしているかわからないけれども愚直に同じことを繰り返していく。この愚直な生き様が、今日本当に政府が硬直し、日本政府のこのでたらめな政治の中で力となるのはそういう愚直な思いだろうと思います。一つ一つのことを多くの人たちが頑張っています。環境団体、平和団体、市民団体、そして個人、宗教の違いを超えて皆で頑張っているこの辺野古の闘い。僕はこれは戦後の日本の歴史の中で無かったことではないだろうかというふうに思っております。ですから、労働組合が相当いろんな状況に追い込まれていますけども、しかし今辺野古への思いを等しくする人たちが一つの行動を取っていく。この首都の中で、先ほども申し上げましたが、やっぱり色んな団体があります。個人の考え方も違います。そういうものが手を取り合って一つの行動を多く作り上げると言うことが、やっぱり政府を動かすんだと思います。

 かって沖縄の知事を務めた屋良朝苗さんはこう言いました、「沖縄の闘いは鋭角ではない、槍ではない」「鋭角ではない、鈍角だ」と言いましたけれども、やっぱりこの鈍角の力が一つ一つの展望を切り開くだろうと思います。なんかわけのわからないことを言っちゃたけど、ヤグラの上では一番居眠りも多いし、緊張感もない僕だけれども、ただ人よりも長く粘りだけは負けないつもりです。粘り強く頑張っていきます。

録音・撮影・編集 編集部I