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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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『一坪反戦通信』
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 第155号(2004年4月28日発行)

吉川英治文化賞に

一フィート運動の会

  沖縄の『一フィート運動』が吉川英治文化賞を受賞した。『一フィート運動』の正式名称は『沖縄戦記録フィルム一フィート運動の会』で、「沖縄戦を知らない世代にその実像を伝える」ことを目的に一九八三年一二月八日に発足した。米軍が撮影した沖縄戦の実態フィルムを「一フィート分百円のカンパ」をキャッチフレーズに児童たちも含めて募金を行い、米国立公文書館から購入して編集し、反戦教育に役立てることを目指した。その成果はドキュメントフィルム『沖縄戦 未来への証言』として結実し、平和学習に活用された。
 一九八六年以来二十年近く『運動』の事務局長として力を尽くした中村文子さん(九一歳)が代表として授賞式に臨んだ。中村さんは受賞の言葉で次のように語った。

 戦争体験者の減り続ける中で戦争を知らない若い世代に「平和を希求する心と戦争に反対する行動力」を育てたいと活動を続けて参りましたが、私たちの願望とは裏腹に、平和への道のりはいよいよ険しくなり残念です。

 講談社主催の授賞式は四月九日帝国ホテルで開催され、文学賞、文学新人賞と他に九件の文化賞が贈られた。

 授賞式の翌日四月一〇日、中村さんの講演会が水道橋の全逓会館ホールで開かれ、一〇〇人を超える人々が中村さんの「私が歩んできた道、沖縄の歩いてきた道」と題する一時間半を超える話に耳を傾けた。
  中村さんは長年教師をしていただけあって話が上手で、初めに一〇の日付をクイズとして提出、聴衆に何の日であるかを訊きながら話を進めた。一〇月一〇日は那覇大空襲で那覇が壊滅した日、三月二六日は米軍が慶良間に上陸した日、九月一八日は満州事変発生の日、九月七日は日本軍の降伏調印などなど。その他に、今ではほとんど知られていない復帰前の女性や教師の活動について、戦後すぐの四八年には米軍の食糧配給停止命令に女性代表が「私たちを殺すのか」と詰め寄って撤回させたこと、五二年には砂利混じりの悪質米追放の署名運動を展開したこと。五三年には文部省主催の社会教育指導者協議会に参加していた沖縄代表一〇人が、たまたま来日中のニクソン米副大統領(当時)に日本復帰要請文を手渡したことなどを語った。

 この集会を主催したのは「沖縄平和ネットワーク首都圏の会」(代表・柴田健)で沖縄での修学旅行の平和ガイドなどをバックアップするため、今年になって発足した団体である。

    (U) 

責任の取り方

   四月一〇日、中村文子さんのお話しを聞きながら思ったのは、「自分に課せられた責任を、なんと見事にまっとうしている方か」ということだった。

 多くの教え子を戦場に送りだし、死なせてしまったという教師としての罪の意識と責任、沖縄における数少ない女性知識層としての社会的役割と責任、人間としての誇りとともに戦後の沖縄をどのように生きたかの証言でもあった。

 責任のとり方でいえば、イラク人質解放の頃、「自己責任」とやたら大唱和していた面々、彼らこそ「自己責任」をとらずに逃げのび、戦後日本の「無責任社会」を形成した元凶である天皇制を支えてきた連中ではないか。一連の言動に見られる恐ろしいほどの狭量、弱いものいじめの醜悪さ(東京都教育委員会の教師への対応にも通底する)。比較するのももったいないが、彼らの品性は、九十年を凛として生きてきた中村文子さんにくらぶべくもない。

 余談ながら、花束を渡す役目をわが関東ブロックの上原代表が引き受け、「あなたほど頭は良くないが、私も見習って死ぬまで闘います」と声を張り上げたその姿は、少年のように初々しかった。小さな花束を介したお二人のツーショットは微笑ましく、しかし切なくもあったのだ。   (むとぅぶんちゅ縄文人)