【連載】
やんばる便り 40
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)
新たな米軍基地建設に反対し続ける辺野古(へのこ)のおばぁたちと話していつも感じるのは、軍事基地がもたらす戦争への強い拒否感、平和への熱い思いと、幼い頃からその恵みによって生かされてきた「命の恩人」である海への深い感謝の心である。それが二つの大きな柱となって、基地反対の意思を支えているように思う。私がこれまで、たびたびお話を聞かせていただいた島袋エイさんも、そんなおばぁの一人だ。エイさんがたどってきた出稼ぎや戦争体験、戦後体験などを少しご紹介しよう。
エイさんは一九二五(大正一四)年、六人兄弟(男四人女二人)の三番目として辺野古に生まれた。父は幼い頃、親を亡くし、あちこちに貰われながら育ったので、学校は出ていないという。「でもね、とても力があって、山仕事でたくさんの薪を切り出してくるから、家族で食べるのには困らなかったよ」
当時の辺野古は半農半漁の貧しいムラで、土地が狭く、田畑もわずかしかなかった。山から薪を担いできて、ヤンバル船が運んでくる品物と物々交換するのが普通だった。「魚が欲しいときは海へ出て捕ればいいし、当時はお金がなくても生活できたのよ」。それでもやはり貧富の差はあった。ムラの中で銀行をやっている人がおり、お金を借りて返せない人から土地を取り上げるので、その差はますます大きくなった。また、当時、ムラにテカチ(車輪梅〔シャリンバイ〕)の染め物工場があったのをエイさんは覚えている。
エイさんの父は田圃もいくらか持っており(田圃は現在キャンプ・シュワブになっているところにあったという)、両親とも海が好きだったので、よく海に出て魚や貝を捕ってきて子どもたちに食べさせてくれた。
エイさんが子どもの頃、父と上の兄が熊本の五木村に出稼ぎに行ったことがあった。宜野座村出身で、辺野古の人を妻にしているNさんという人が募集に来たが、水力発電用のトンネルを掘る仕事だった。この募集に応じて、辺野古から女性二人を含む一〇人ぐらいが行った。あとでエイさんが父から聞いた話では、熊本の工事現場で働いていた人夫の多くが朝鮮人ではなかったかという。
しかし、父や兄の仕事は長く続かなかった。行ってしばらくして、募集人のNさんの娘が強姦される事件が起こり、これにショックを受けた辺野古の人たちは全員、ここの仕事を辞め、ある人は大阪へ、ある人は鹿児島へとバラバラに散っていった。エイさんの兄も大阪へ移った(この兄は目が悪かったので軍隊に取られずにすんだ)。父はそのままシマに帰ってきた。「熊本から銘仙の反物を一反だけお土産に持ってきてくれたんだけど、それが働いた分のすべてだったさ」
一九四一(昭和一六)年、エイさんは久辺小学校の高等科に進んだが、軍事色の強まる世相の中で学校教育も軍隊式となっていた。「毎日叩かれるので嫌気がさしてね。一年の一学期の遠足の時、男子生徒がちょっとしたミスをしたのをあんまり殴るから、それで学校をやめてしまったの」
その後、三カ月ほどヤマアッチャー(山稼ぎ)をしていたエイさんは、辺野古にやってきた募集人に誘われて紡績に行くことを決心した。お金のためというより、紡績に行けば礼儀作法やお花などの習い事や、国語、数学、算盤などの勉強もできると聞いたので、それを習いたいと思ったのだった。辺野古から、エイさんを含む女四人と男一人がいっしょに行った。募集人のJさんは平安座(へんざ)の人、その妻は辺土名(へんとな、国頭村)の人で、国頭、大宜味(おおぎみ)、羽地、今帰仁(なきじん)、古宇利(こうり)島などからもたくさんの人を連れていっ
四一年七月、エイさんたちは那覇から出港したが、出港の前に泊まった旅館には台湾人や朝鮮人も泊まっていたという。「開墾の仕事に雇われて、仕事が終わったので帰るところらしかった」と彼女は言ったが、日本軍の軍事施設のための工事だったのだろうか。
那覇を出た船は途中、奄美大島の名瀬に立ち寄り、そこでも人を乗せた。鹿児島、長崎、熊本、宮崎(延岡)などからの出稼ぎのおばさんたちといっしょになり、兵庫県に着いた。
工場は、大阪府の柏原紡織だった。工程によっていろいろな職場があり、各人それぞれに会社から職場を割り当てられた。エイさんは撚(よ)り糸の職場に就いた。辺野古からいっしょに行った人で、綿から糸を取るリングという職場に回された人もいたが、「綿が飛んで眉毛も鼻も真っ白になるので可哀想だったよ」とエイさんは言う。そのために肺病になった人も少なくないと聞いた。「その点、撚り糸は汚れ知らずでね、仕事が終わる夕方頃になっても、服はきれいなままだった」
工場では上着と襞スカートという学校の制服に似た制服が支給されたが、冬は制服の下からたくさん着ないと寒かった。後になってからだが、エイさんは織布の職場から糸を巻いた木管を五〜六個失敬してオコシを編んだこともあるという。
撚り糸は、「今のトイレットペーパーのような紙」が機械で縒(よ)られながら下りてくるのを下で木管に巻いていく仕事だった。手早く切らないと、巻きすぎてたいへんなことになるし、また、途中で切れたら素早く繋がなければならないので、気が抜けない。
巻かれた糸はカセ場で大きなカセにして荷造りし、トラックに積み込んでいた。男工の仕事はこの荷造りや積み降ろし、また機械の油差しなどだった。
原料の紙がなくなると、次にエイさんは木綿の糸を作るチーズの職場に配属された。木綿は布にして、軍服を作る軍需工場に運ばれるという話だった。工場では麻糸も作っており、マカヤのような植物を炊いて腐らせてから糸を取っていた。「麻の栽培には朝鮮人がたくさん働いていたよ」
工場に何人ぐらい働いていたのか、エイさんにはわからなかったが、寄宿舎は四つあり、それぞれ八人部屋が一〇部屋ずつあった。沖縄の人は多かったが、同じ部屋に沖縄の人だけ入れることはなかったという。沖縄の人は逃げるからだということだった。沖縄以外にも全国から来ており、新潟や富山の人、奈良の人もいた。エイさんたちのような若い娘だけでなく、子どもを親に預けてきたという人、離婚してきた人など、年の行った人たちもいた。「この人たちはよくスケベな話をしてね、『あんたたちも年取ったらわかるよ』と言っていた」。工場の近くの農家のおばさんたちも、農閑期に工場の掃除などの仕事に雇われていたようだ。
他府県の人の中には沖縄をバカにする人もいたし、そうでない人もいた。エイさんも最初はウチナーグチしか使えないので、言葉に苦労したが、工場に入って二〜三カ月で言葉も仕事も覚え、入社一年後には「見回り」になった。また、平安座出身の人と二人、責任者になって沖縄から来た子どもたちの世話をした。小学校四〜六年生ぐらいの、台に乗ってやっと仕事ができるような小さな子どもたちも多かったので、この子たちがいじめられないように仕事を手伝ってやった。
最初の頃、泣きながら家に手紙を書いていたのが嘘のように、工場の生活は楽しく、帰りたくないと思った。トイレの側から荷物を投げて逃げた友だちもいたが、エイさんは逃げる気など起こらなかった。給料もだんだん上がり、月二五〜三〇円稼ぐようになった。
工場にはまだ空襲はなかったが、軍事色がだんだん濃くなるのを感じるようになった翌四三年、家から「沖縄に兵隊が来るそうだから、早く帰ってきなさい」という連絡が来た。大阪で働いていた辺野古の人が「シマに帰る人がいるから、いっしょに帰らないか」とエイさんに言ってくれたが、会社がなかなか帰したがらない。結婚退社しか認めないと言うので、ある人と結婚をするということにして、一カ月後にやっと帰れるようになった。
四三年三月、エイさんは既に空襲警報の出ていた梅田を発ち、夜、鹿児島に着いた。鹿児島の港から奄美丸という船に乗ったが、沖縄に行く兵隊たちといっしょだった。「船が沈まないかと思うくらい、トイレまで兵隊たちでぎっしりだったよ。台湾に行くという若い娘たちも乗っていた」
行くときの船とは比べものにならないほど粗末な船だったが、それでも無事に沖縄に帰ることができた。工場で働いていた辺野古の友だちは、エイさんより四〜五カ月遅れて帰ってきたが、その時は爆撃が激しくなっていて、船が沈まないかと冷や冷やしたという。
【以下次号】
|