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『一坪反戦通信』
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 第149号(2003年9月16日発行)合併号

統一と民主化を進める

若い力を見た!

第三次韓国・反基地平和ツアー報告

厚木基地を考える会 矢野 亮

 原子力空母の母港化に反対し基地のない神奈川をめざす県央共闘会議が主催する韓国ツアーも、今年で三回目になった。一次・二次の話を聞くと、強行スケジュールで、宿も寝るだけのものということだが、飯だけはうまいものを食わせるというので、行くことにした。

 釜山から入り、北上して境界線までの旅。非武装地帯は入れなかったが、四泊五日での縦断は確かに忙しかった。

若い力

 旅程の中で、ハエリア基地(一七万坪に一七人しか働いていない米陸軍基地。主な任務は南方面の基地のパンを焼くこと)、プヒョン基地(六七四日の座り込みをして、基地返還対象とするという発表にこぎ着けたが、最近、兵舎建設の動きがある)での集会、また、ソウル、イムジン江で朝鮮戦争停戦五十周年の集会に参加したが、日本と違うのは、主催者も参加者も若いこと。アピールの合間に、学生のグループが歌と踊りのパフォーマンスを繰り広げるのだが、皆、その振り付けや音楽を知っていて、会場のあちこちで、高校生とも思える子ども達が一緒に歌い踊っている。韓国語がわかれば、もっとおもしろいんだろうなぁ。日本でも、イラク攻撃の時は、若い世代がデモに参加していたがね。


旧日本軍の負の遺産

 釜山から北上して、先日ユニバシアード大会が行われたテグに行く途中、キョンサンという町がある。ここには、旧日本軍占領時代に、コバルトが採掘されていた鉱山跡がある。占領時代が終わった後、ここは、より悲惨な現場となった。日本からの解放闘争を闘った人たちが、今度は北側の手先だという疑いをかけられ、ここに集められ、次々と殺され、埋められていったのである。根拠になった法律は、日本占領時代に制定された、「思想犯取り締まり監察法」。

 廃坑跡は、真っ暗な洞窟で、ふくらはぎのあたりまで水がたまっている。そこを二十メートルも進むと、人骨がごろごろしているのである。朝鮮戦争時には三十万人から百万人もの人々が思想犯として殺された。ここにも三千五百体ほどの人骨が眠っているはずだという。

 これだけの物的証拠を前にしても、政府は事実を認めようとせず、調査すら行われていない。当時は、米軍の完全統治下にあり、責任は米軍にまで及ぶこと、当時の政界の中心人物がまだ生きていることなどが、真相究明を遅らせている。実態調査が行われないので、埋葬もできずにいるのである。

 ソウルの西大門刑務所跡も、旧日本軍の負の遺産の影響を雄弁に語る。主に政治犯を収容していたここでは、日本軍による拷問のすさまじさ、設備の劣悪さがそのままの形で展示されている。とくに三・一バンザイ運動で逮捕された市民への拷問は苛酷なものがあり、韓国のジャンヌダルクと言われた柳寛順も、ここで獄死している。一六歳の若さであった。

 この刑務所は一九八七年まで使用されている。すなわち、戦後からは、非民主的な政府によって、日本軍のやり方を踏襲した仕打ちが、政治犯に対しても行われていたのである。


記される民主化の足跡
 西大門刑務所跡では、夏休みの自由研究のために来ている地元の中学生に出会った。

 王宮跡の景福宮でも、そのような一団がいた。

 釜山の近代歴史館は、日本統治時代、東洋拓殖株式会社釜山支店であったが、解放後も、アメリカ文化センターとして米国に占領され続けていた。一九九九年に、ようやく返還され、日本の侵略と収奪の歴史、アメリカとの関係などを展示する博物館となっている。

 また、そのすぐ近くには、民主抗争記念館が建てられ、六〇・四・一九革命、釜馬民主抗争などをはじめとする釜山での民主化運動、およびその他韓国内での民主化運動を紹介し、その犠牲者の写真などを展示していた。しかも、これは個人のものではなく、公費を投じて行っているのである。

 紙面が尽きた。ホテルのそばの食堂での朝食が、三百円でおかわり自由だった。辛いものが特別好きでもない私が、そのうち、ビビンバにコチジャンをたっぷり入れるようになった。しかし、韓国が誇る特急列車セマウル号でコーヒーを頼んだら、突然粉を入れてお湯を注いだのには、びっくりした。これも三百円。

 今度は、少しハングルを練習して行こうかな。