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『一坪反戦通信』
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 第147号(2003年6月28日発行)

【連載】 やんばる便り 35
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 連載三二回でパラオに渡航した知念春一(ちねん・はるかず)さんをご紹介した際、春一さんや、彼の一族を含む嘉陽(かよう)の人たちが働いていたアラカベサンのカツオブシ工場の経営者は、本村さんという宮古出身者だったことを書いた。今回、登場していただくのは、その本村さんの姪にあたる知念安子さんである。

 安子さんは一九二一(大正一〇)年、宮古・伊良部(いらぶ)町佐良浜(さらはま)の生まれで、旧姓は上地。パラオに渡航後、嘉陽出身の知念俊一さんと結婚。日本の敗戦後、夫とともに嘉陽に引き揚げ、以来、ずっと嘉陽で暮らしてきた。夫はすでに亡く、子どもたちも独立して現在は一人暮らしだが、どことなく垢抜けした感じで、年齢よりずっと若く見える。自宅の前の小路(スージグワー)で丁寧に草取りしていた彼女に声を掛けて、「パラオのお話を聞かせてくださいませんか」とお願いしたら、快く家の中に招き入れてくださった。なお、夫の俊一さんは春一さんの父の従兄弟に当たり、春一さんがパラオに渡る際に頼りとした知念俊男さんの弟である。


 安子さんの父は、嘉手納にあった県立農林学校を卒業して教員をしていたので、子どもの頃の彼女は父の転勤に伴って各地を転々とした。兄弟は三人で、兄と異母妹がいる。パラオでカツオブシ製造業を営んでいた本村善さんは安子さんの実母の弟で、善さんの妻が早く亡くなったので、母はその娘(トシ子さん)を引き取って育てていたという。

 安子さんが女学校に通っていた一七〜八歳の頃(一九三八〜九年?)、母は四〇代の若さで亡くなってしまった。産みの母も育ての母も失った従姉妹・トシ子さんの養育は、安子さんが引き継いだ。その後、父は若い人と再婚したが、安子さんはそれが嫌だったので、トシ子さんを連れて、当時東京にいた兄のところに行った。兄は学校(高等師範)に通いながら学生結婚していた。義姉も学生だったが、やがて兄夫婦に子どもが生まれたので、安子さんはその子守をしながら東京で二年ほど暮らした。

 安子さんの父は、教員の給料が安かったため(「当時は、校長でも月給一五円くらいしかなかったのよ」と安子さんは言う。現在の一五万円くらいに当たるのだろうか)、台湾の日本製糖に出稼ぎに行ったこともあるという。現地で農区長(?)を勤め、また、再婚した妻も教員だったので、二人とも補充教員として現地の子どもたちを教えたこともあるらしい。詳しい事情はわからないが、意図せずして、日本による台湾植民地化の一端を担わされたわけだ。

 すでに戦争が始まっており、安子さんの兄はまだ在学中だったが召集された。その後、安子さんはトシ子さんを連れてパラオに渡るのだが、それはたまたまの行きがかりで、彼女が自らの意志でそれを選んだわけではない。叔父の善さんがパラオで、嘉陽出身の知念房子さん(俊一さんの姉に当たる)と、正式な結婚ではないが所帯を持ったので、娘を引き取ることにした。ところが、トシ子さんが一人で行くのを嫌がったため、安子さんがついて行くことにしたのだ。安子さんとしては、トシ子さんが幼い頃に別れたままの父親と、新しい母親に馴染んだ頃を見計らって帰ってくるつもりだった。しかし、戦争が彼女の以後の人生を変えてしまった。


 安子さんとトシ子さんが横浜の港からパラオに向けて出港したのは、四二〜三年頃だと思われる。「敵の軍艦を避けるためにあっちこっち避難しながら、四〇日もかかってパラオに着いたのよ。おかげで小さな島々をたくさん見ることができたけど」と、安子さんは言う。船にはパラオに出稼ぎに行く一七〜八歳の女性たちが、安子さんの言葉を借りると「何百人も」乗っていた。「パラオは日本軍の兵隊たちが休息をとる交替の場所になっていたの。その兵隊たちの相手をするコロール(パラオの首都)の料亭やバーなどで働くために、沖縄からも本土からもたくさん行っていた」。彼女たちはパラオに到着後、戦争が激しくなったために、散り散りばらばらになったのではないかと、安子さんは今も気になっている。

 善叔父さんは、アラカベサンの島全体を島民から買い取り、沖縄の人を大勢使ってカツオブシを製造していた。カツオ漁をしていたのは主に渡名喜(となき)島や慶良間(けらま)島の人たちで、工場には嘉陽の人たちが多く働いていた。しかし、安子さんたちが着いた頃から、工場も、そこで働いていた人たちも軍に徴用されて、本業はほとんどできなくなっていたという。工場は軍隊の休憩所として使われ、嘉陽の人たちは、男は漁撈隊として軍の食料確保に従事し、女性も子どものいない人は軍の手伝いをさせられた。

 叔父さんはアラカベサンに大きな費があまりかからない。お金を貯めるには絶好の場所だったはずよ」。昼間は暑いが、夜は布団が必要なほど涼しいし、毎日スコールがあるので水にも不自由はしない。トタン屋根から雨樋で天水を溜め、飲み水にしていたという。湧水の井戸もあり、そこで浴びたり、洗濯をした。「叔父の会社では従業員のための家を建てて、無料で貸し出していた。子どもの多い家族には大きな家を割り当ててね」

 そうこうするうちにも戦争はいよいよ激しさを増してきた。「叔父はそれまでも商売の関係で、東京や南洋各地を回っていたらしいの。当時、パラオで仕事ができなくなったので、外(そと)南洋で事業を興こそうと動いていた」。外南洋とは、内(うち)南洋と呼ばれたいわゆる南洋群島(マリアナ、カロリン、マーシャル諸島)に対し、フィリピン、シンガポール、ボルネオ、ジャワ、スマトラ等の東南アジアを指す。しかし善さんの計画も戦争に阻まれたようだ。

 パラオにしばらくいて東京に帰るつもりだった安子さんも、帰れなくなった。日本海軍の「大きな部隊の受付で二カ月くらい働いた」あと、知念俊一さんと現地で結婚。そのいきさつは聞かなかったが、俊一さんは叔父の妻・房子さんの弟だから、叔父夫婦の勧めがあったのだろう。

 安子さんによれば、俊一さんは子どもの頃から「秀才」と言われていたという。「嘉陽小学校の高等科を卒業したあと、首里にあった県立一中を受験するつもりで出かけたんだけど、やんばるから行ったので受験に間に合わず、仕方なく水産学校を受けて入学したらしいの」。当時、姉の房子さんは那覇に住んでおり、辻の遊郭の人たちが着る着物を縫って俊一さんの学費を作った。「そのお姉さんが先にパラオに渡り、俊一さんを呼んだのではないかと思う」と安子さんは言った。

         (以下、次号)