軍用地を生活と生産の場に!
沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
http://www.jca.apc.org/HHK
東京都千代田区三崎町2-2-13-502
電話:090- 3910-4140
FAX:03-3386-2362
郵便振替:00150-8-120796

『一坪反戦通信』
毎月1回 28日発行 一部200円 定期購読料 年2,000円

 第144号(2003年3月28日発行)

【連載】
 やんばる便り 33
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 とうとう米英軍によるイラク攻撃が始まってしまった。編集部から原稿締切日のお知らせをいただいたのだけれど、この戦争(というより、一方的な殺戮と破壊でしかないが)のことが片時も心を離れず、通常の原稿を書く気にはとてもなれない。世界中の人々の反対の声も祈りも空しくなってしまった今となっては、それについて何かを書くことがどれほどの意味を持つとも思えないし、ただの愚痴にしかならないことはわかっているが、この「番外篇」をどうかお許しいただきたい。


 イラク攻撃が始まった三月二〇日夜、名護市役所前広場で「とめようイラク攻撃――レンジ10廃止・新基地建設反対――北部住民集会」が開かれた。集会実行委員会の代表は渡具知裕徳・元名護市長である。攻撃開始の日とあって、集まった三五〇人の人々の中には怒りが燃えているようだった。恩納(おんな)村以北の職員労組などの旗、辺野古(へのこ)・命を守る会をはじめ住民団体ののぼり、市民の思い思いの筵旗やプラカードなどが勢揃いしたのは久し振りだ。保育園の保母さんや子どもたちも、手作りのプラカードを持って駆けつけた。辺野古のおばぁたちが集会の最前列を占め、いつもの集会ではあまり見かけない若者たちの姿も目立った。

 参加者のリレー・アピールでは、命を守る会の金城祐治さんが、空襲下で逃げまどった少年時代の体験を語り、イラクの人々に思いを馳せ、新基地は絶対につくらせないと決意を述べた。名護市職労の宮城保さんは、自分の母親が「でーじどー、いくさが始まった。懐中電灯は、○○はあるか……」とうろたえたことを話し、「ほんとうに大切なものを守ろう」と訴えた。

 名護市議会の市議団代表として発言した宮城康博さんは、民間のパイン畑への被弾事件を引き起こし、その原因究明もしないまま、沖縄県や名護市の反対を押し切って実弾射撃訓練の再開が強行された米軍キャンプ・シュワブの訓練場・レンジ10を、与野党を問わない市議団の結束で必ず追い出すと宣言した。米軍基地の使用協定など何の役にも立たないことを見せつけたレンジ10の問題や、稲嶺・沖縄県知事も岸本・名護市長も普天間基地移設=辺野古新基地建設の条件とした「一五年使用期限」について、米国防総省高官が「日本政府は米国政府に解決を求める問題としないことを伝え、既に合意している」と言明した(地元紙が報道し、日本政府は火消しに躍起になっている)ことなど、新基地建設の矛盾はますます明らかだ。

 私も発言の機会を与えられたので、その日の昼休みにブッシュの「開戦演説」をラジオで聞いて以来、胸のうちに渦巻いて爆発しそうだった思いを語った。四年前、「アラブの子どもと仲良くする会」の伊藤政子さんを名護に招いて、湾岸戦争の際に米軍が使用した劣化ウラン弾とその後の経済制裁が、イラクの人々、とりわけ子どもたちに何をもたらしたのかを聞き、写真展を行ない、その後も何度か実情を知る機会に恵まれながら、彼らが再び爆撃に晒されるのを許してしまったことが耐え難い。「これは平和と自由のための戦争、世界を守るための戦争だ」と言ったブッシュ、それを即座に支持表明した小泉を、ただ罵ることしかできない自分が情けなかった。

 本部(もとぶ)町の原田みき子さんは、彼女の住む本部町大堂に隣接する今帰仁(なきじん)村今泊で持ち上がっている採石計画が、辺野古新基地建設(埋め立て)と連動していることを指摘し、今泊区が行なっている計画中止署名への賛同を呼びかけた。採掘権を取得しようとしている宇部興産は、辺野古への基地移設計画が動き出した当時の首相・橋本龍太郎との深い関係が取り沙汰されているという。

 集会のあと行なった市内デモ行進には、商店街(シャッター通りと揶揄される名護旧市街地はいささか淋しくはあるのだが)の店先や通行中の車の中からの声援、歩道を歩く高校生が手を振ってくれたりもして、市民の関心が感じ取れた。それでも、私の心が晴れないのは当然だったけれども。


 その翌々日、用事があって近所のフミおばぁを訪ねた。私の呼び声を聞いたおばぁは、足を引き摺りながら奥から出てきてガラス戸を開けてくれたが、足は不自由でも元気なおばぁが、なんだか疲れているようだ。「どうしたの?」と尋ねると、昨夜、テレビでイラク攻撃の様子を見ていたら頭が痛くなり、気分が悪くなって寝込んでいたのだという。私自身も、いつもはほとんど見ないテレビのニュースを見ていて胃が痛くなってしまったのだが、沖縄戦を生き延びたおばぁたちにとって、それは、六〇年近い年月を超えて、思い出したくない、あの「いくさ」に一気に引き戻してしまうものなのだ。

 「いくさは嫌だ」と、おばぁは吐き出すように言った。「だけど、いくら反対しても上の人たちがやってしまうんだから、どうしようもないね」と声を落とすおばぁに、私はなんと言えばいいのかわからない。
 「くまから死にがいじゅんどーやー=ここ(の基地)から死にに出ていくんだよね」と思いやるおばぁの真心が米兵たちに伝わればいいのに。「あんたたちががんばっているのに(新しい)基地もできるのかねぇ。わったーや、やがて死ぬからいいけど、子孫(くゎーまが)がたいへんなるさー」

 おばぁの家からの帰りに会ったミエ子ねぇは、テレビで爆撃音がするたびに耳を塞いでしまうと言った。「戦争の時、私は一〇歳だったけど、この庭に防空壕が掘られていたんだよ」と庭先を指さす。今はミエ子ねぇが丹精込めて育てた色とりどりの花が咲き乱れているそこに、地下壕があったのだという。地面から下に掘り込み、そこから横穴を掘ってあった。

 「この屋敷の家にも庭にも、足の踏み場もないほど避難民がいたのよ。隣の屋敷にもたくさんいた。うちは与那原(よなばる)の人が多かった。避難民の中に、ゲートルを巻いた男の人がいてね。この人は長時間歩いてきたので、足の疲れが少ないようにとゲートルを巻いていたと思うんだけど、そのために脱走兵だと思われて、日本兵に撃たれてしまったの。その後、私たち家族は山に逃げたんだけど、撃たれた人は何日かして、この防空壕の中で亡くなったと聞いた」

 ミエ子ねぇも、爆撃に晒されているイラクの人々に、子どもの頃の自分を重ねあわせているのがわかった。


 新聞報道によれば、共同通信社が開戦直後に行なった世論調査で、小泉首相の攻撃支持を評価する人が、開戦前の二倍に増えたという。その理由として、「日本への北朝鮮の脅威に対応できるのは米国だから」が半数近くに上っているというのだ。唖然としてしまった。なぜこれほどまでに人々は思考停止してしまうのか。

 話はまったく逆だ。苦しみ、殺されていくイラクの民衆に思いを致すことができず、きわめて利己的に自分の身の安全を考えるとしても、米国に追随することがもっとも危険な道だというのは見えやすい道理ではないか。今や世界の嫌われ者となった米国に追随すればするほど、日本も嫌われる。イラク国民をはじめアラブ世界からは敵と見なされ、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は日本に対する危機感と強硬姿勢を強めるだろう。沖縄の米軍基地が彼らの憎しみの標的となっても、なんの不思議もない。多額の思いやり(いつ口にしても、書いても腹の立つ言葉だ)予算を注ぎ込んで、それを置き続けているのは日本政府であり、そのことを許しているのは日本国民なのだから。


 半世紀余りを生きてきて、こんな社会しかつくれなかったのかと、不遜にも思う。穴があったら潜り込んで、消えてしまいたくなる。しかし、こんな社会をつくってきた一員だからこそ、穴に潜るわけにいかないのでもある。地域ぐるみで盛り上がった基地反対運動が、長期間の疲れや、政府のありとあらゆる「アメとムチ」で締め上げられていくのを目の当たりにして絶望しそうになりながら、おばぁたちの思いと子どもたちの笑顔、この島の山や海に励まされて、「地を這ってでも絶対にあきらめない」と決意したことを、もう一度思い出そう。あきらめなければ、いつか必ず道は開けると自分に言い聞かせながら。(愚痴を読んでくださってありがとう。)