【連載】
やんばる便り 29
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)
沖縄からのフィリピン移民は一九〇四(明治三七)年の「ベンゲット移民」に始まる(もちろんそれ以前にも単独で渡航した人々はいた)。当時、アメリカの統治下にあったフィリピン・ルソン島北部のベンゲット州バギオへ通じる道路の開設工事(一九〇一〜〇五年)にフィリピン、アメリカ、日本、中国を中心に四六の国や地域の労働者が投入された。山岳地帯を掘削するため難工事を極めたというこの工事に、日本人労働者が従事したのは一九〇三(明治三六)年一〇月から。その翌年四月、沖縄の移民先進地・金武(きん)村出身の大城孝蔵の引率で一一一人が渡航したのを皮切りに、翌〇五年一月末の完成までに三六〇人のウチナーンチュが工事に従事したという。
ベンゲット道路の完成後、帰国した日本人労働者も多かった(一九〇三〜〇四年の在留日本人は五〇〇〇人余を数え、うち半数以上がベンゲット工事に一度は従事しているという)が、残った人々は次の働き口を求めてフィリピン各地に散った。行き先は、ルソン島のマニラ、ケヤビテ、オロンガポ、パナイ島、セブ島、ミンダナオ島のダバオ、ザンボアンガ、マラウエなど、職種も漁業、農業、兵舎その他の建設・土木工事、木挽、大工、真珠採取、米国軍人のボーイ等々、多岐にわたっている。なかでも最も多くの移民を吸収したのが、ミンダナオ島における麻栽培農業であった。
フィリピン諸島の最南端に位置するミンダナオ島は四国より少し大きい島である。一九〇三年の人口は二万人余、うち外国人はわずか七三人(うち白人が五二人)だったのが、日本人の渡航が始まってから三〇年を経た一九三五年頃には、ジャングルから人口約三〇万人の都市へと変貌している。日本人初期移民の頃のダバオがどんなところだったのか、『金武町史《移民・本編》』から引用してみよう。
「日本人移民が入植していったダバオ湾西北部では、海岸ぞいには現地住民(バゴボ族、モロ族、マンダヤ族などたくさんの部族がある)が水上家屋をつくり、丸木舟で魚類をとり、一歩奥地へ入ると狩りに精を出すという生活をしていた。〈略〉
ダバオには日本人に先がけて、アメリカ人が経営する麻事業が細々と開設されていた。原住民にとって日本人移民もまた外来者であり、土地の租借、言語、習慣の相違などからたびたび衝突が起こったりした。
だが、麻山での原住民雇用や日常生活での商取引が活発になるにつれ、両者の関係は次第に良好になってきた。太田興業(兵庫県出身の太田恭三郎が一九〇七年、ダバオに創立した麻事業会社)設立後は、〈略〉開拓が拡がっていくが、麻山の労働者不足は移民だけでは追いつかず、ほとんどの耕地で原住民が使用人小屋を提供されながら、ともに働いていくことになっていく。」(括弧内は筆者)
こうして、日本からのフィリピン移民のほとんどがダバオでの麻栽培に従事するようになった。 久志グヮーの宮里松蔵さんがダバオに入植した一九一九(大正八)年のダバオ在留日本人数は七〇〇〇人。その六〜七割をウチナーンチュが占めていた(うち半数が金武出身)という。
「ダバオ地域で生産されるアバカ(麻)がマニラ麻と呼ばれるようになったのは、輸出港がマニラで、その取り引きが米国人によってなされたので、〈略〉
……ダバオ移民は当初アメリカ人など外人経営の雇用者に始まるが、その後は日本人会社の雇用者、そして個人経営者(自営業)として独立し、現地人を雇用していく……」(『金武町史《移民・本編》』)
松蔵さんの長男・正雄さん、次男・金吉さんが父の呼び寄せでフィリピンに渡航した時期(大正末期〜昭和初期)の沖縄は、第一次世界大戦後の世界的な不況の波を受け、「ソテツ地獄」にあえいでいた。農村が疲弊し、子どもたちの人身売買も珍しくなかった。「当時は日本も沖縄もたいへんな不景気だったので、移民が奨励されていた」と、金吉さんは語る。
背が低かったため徴兵検査で不合格になった金吉さんは、一九三〇(昭和五)年五月、数え二二歳で父と兄のいるダバオに向けてシマを旅立つ。当時としては大金だった渡航費三〇〇円を、祖母が「フィリピンで稼いできなさい」と言って出してくれたという。
久志グヮーから、金吉さんを含む五人の若者がいっしょに行った。那覇から長崎へ、そして長崎からフィリピンへと出港した彼らの胸に去来したのは何であったろうか。
金吉さんの兄・正雄さんが渡航した一九二五(大正一四)年までは、日本の船はマニラにしか寄港せず、マニラからダバオまでは小さな島内船で渡ったという。翌二六年にダバオ港が開港した。
船から降りた金吉さんは、父と兄のいるダバオ市ラサンのカミヤマ耕地へ行った。カミヤマ(神山?)さんという人が、モロ族の首長の娘を妻にして大地主となっていたのだ。カミヤマさんは麻山(麻園)のほかに椰子園も所有していたという。金吉さんの父の松蔵さんは初期の移民だったので、港や町に近い便利なところに土地を得られたが、あとから来た人ほど山奥に行かなければならなかったようだ。
金吉さんが到着してまもなく、松蔵さんは正雄さんに麻山を譲り、正雄さん夫婦(正雄さんは前年の一九二九年に、シマから妻・ウシさんを呼び寄せていた)と金吉さんを残して帰郷する。金吉さんは兄のもとで働きはじめた。
「ミンダナオはどんなところでしたか」と尋ねると、「とてもいいところだよ。沖縄に似ているけど、年中、夏でね、沖縄よりずっと過ごしやすかった。台風もないし」という返事が返ってきた。「台風はマニラ以北で発生するからミンダナオには影響しないんだ」。
「へぇ、そうなんだ」と、無知だった私は得したような気分になる。「フィリピンの麻は沖縄の芭蕉と似ているけど、台風がないから沖縄よりずっと高くて、ずっと大きな木になる。高さは二〜三メートルくらいかなぁ。大きさはこれくらい」と、手で示してくれたのは、直径三〇センチくらいか。土地がとても肥えていて、肥料はいらなかったという。
「麻だけでなく野菜も、肥料を入れなくてもよくできたよ」と、お連れ合いの千代さんが相槌を打つ。「イモなんか、肥料なしでこんなに大きなイモがつくの」。また、わざわざ植えなくても、野山に自然の果物や野菜が豊富にあった。「沖縄では肉や魚は滅多に食べられなかったし、ソーメンも年一〜二回しか食べられなかったけど、フィリピンではよく食べたよ」
麻山の仕事について、『金武町史』や金吉さん・千代さんの話から拾ってみよう。
麻は種株を植えつけて二年で成熟するが、その間の主な作業は草取りである。これには女性や現地の人々が雇われた。木が成熟すると、葉を落とす作業がある。これは、よい繊維が取れるものを選択しながらやるので、主人の仕事だった。次に麻の木を切り倒し、木の外側と内側を分けて機械にかける。一九二〇(大正九)年に麻引き機・ハゴタンが日本人によって開発されるまでは手引きで、相当の労力を要したというが、機械の完成後は作業が格段に速くなった。それでも機械の操作には危険が伴うので、若い日本人か熟練した現地人労働者がこれに当たった。引いた糸は天日で一日干し(ミンダナオでは雨は夜にだけ降るという)、倉庫に納めて出荷を待った。
糸を引いた後のカスは肥料に最適だった。金吉さんの話では、このカスを畑に置いておくと、そこにシメジのようなキノコが生えるので、よく採って食べたという。「シイタケよりおいしかったよ」。後に帰郷してから、芭蕉の根っ子に同じようなキノコが生えているのを見たそうだ。
木の外側から取る糸は固くて太く、値段が安かった。千代さんによれば、日本はこれだけを買っていたという。ロープを作るためだ。「内側から取れる細くてきれいな上等の糸は服地を織るものだけど、これはアメリカに運ばれていたんじゃないかねぇ」
金吉さんは渡航して七年目で兄のもとから独立し、自営することになった。そして、それを機に妻を迎えるために一時帰郷する。一九三七(昭和一二)年一月であった。
金吉さんはこのとき、当時のお金で四〇〇〇円という大金を持参していた。実は彼にはひそかな夢があったのだ。金吉さんは子どもの頃から勉強が好きで、久辺尋常高等小学校の高等科を卒業した後も、農作業や山仕事の傍ら、補習学級(久辺校の教員たちが青年たちに教えていた)や通信教育で勉強を続けていた。フィリピンで儲けたお金で「東京に出て大学へ行くつもりだった」と彼は言った。
金吉さんと千代さんの結婚の祝宴はシマで盛大に行なわれた。豚を潰し、「酒を一斗瓶(かめ)で買ってシマ中で飲んだ」。酒一合が一〇銭の頃で、一斗で一〇円だったという。娯楽の少なかった時代、シマを挙げての祝宴はさぞかし盛り上がったことだろう。
そのあと金吉さんは希望通り進学したかというと、なぜか「考えを変えてフィリピンに戻ることにした」のだという。その理由については、いくら聞いても答は得られなかった。多分、希望を叶えるには、複雑に絡み合った難問がいくつもあったのだろう。しかし「東京の大学に行きたかった」と繰り返し口にする金吉さんの思いが半端でなかったことも、確かなようだ。それをふっきるかのように、彼は「あのとき東京に行っていれば、戦争で死んでいただろう。フィリピンに戻ってよかった」と語った。
金吉さんが妻となった千代さんを伴って再渡航の準備をしていたとき、日中戦争が始まった。 久志グヮーでも七〜八人に召集令状が来て出征していったが、その全員が帰らぬ人となってしまったという。外国航路の船が戦争に動員されたため、フィリピンへの出発は予定より遅れ、同年九月、新婚夫婦は台湾経由のメキシコ丸で那覇港を旅立った。
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