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第138号(2002年7月28日発行)

【連載】
 やんばる便り 27
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 私は四年ほど前から、名護市史編纂(へんさん)室の調査員をやっている。最初は民俗地図(名護市内各字=シマの戦前の様子を再現した地図)作成のための聞き取り調査、現在は、かつて出稼ぎ・移民としてシマから出ていった人々の体験を聞く調査を続けている。名護市では市の広報『市民のひろば』で調査員を公募し、「市民調査員」の育成を図っているが、地味で根気を必要とし、労力や神経を使う割に報酬が少ないとあっては、応募してきても長続きする人は少なく、まだまだ初心者の域を出ない私が、いつの間にか古株の一人になってしまった。

 市民調査員を育てるには公募だけでは不充分だと、市史編纂室では、来年度から開始予定の名護市史「戦争篇」のための聞き取り調査を前に、定期的な勉強会を企画した。これも『市民のひろば』で広報し、市民が誰でも参加できる勉強会を重ねながら「戦争体験を記録する」ことの意味を論議しあい、調査員を育てていこうというものだ。


 その勉強会の二回目が、戦後五七年目の沖縄・「慰霊の日」(六月二三日)の余韻さめやらぬ六月二八日に行なわれた。有事法案が国会で論議される中で迎えた今年の「慰霊の日」は、五七年の歳月を経てなお、死んでも死にきれない魂たちが、この国の危うい現実を激しく訴えているような気がした。

 当日の勉強会で、自身の戦争体験を話してくださったのは、沖縄戦当時、名護にあった県立第三中学校の生徒であり、「鉄血勤皇隊」に動員された比嘉親平(しんぺい)さん。沖縄戦の語り部の方々が、「自分が奇跡的に生き残ったのは、このイクサを後世に語り伝えなさいという天からの使命だ」とおっしゃることがよくあるが、比嘉さんの語りの中にも、ともに死線をさまよい、死んでいった学友たちの魂が寄り添っているようで、参加者たちは息を呑んでお話に聞き入った。

 実は比嘉さんは、名護市が一九八五年に発行した『語りつぐ戦争――市民の戦時・戦後体験記録 第一集』(A五判二一六頁。九五年再版)に寄稿し、寄稿者の中では群を抜いて長文の、四五頁にもわたる詳細で克明な手記を載せている。「追いつめられた国頭(くにがみ)の山岳戦――三中学徒・一有線班員の記録」と題したその手記は、戦後三年経った頃、戦争当時の記憶を思い出すままに記した覚え書きを整理したものだという。それを読んでいただくのがいちばんいいのだが、ここでは、比嘉さんの体験を大ざっぱに追いながら、勉強会の時に強調されたこと、お話の中で印象に残ったことを中心に報告してみたい。

 沖縄戦の特徴の一つは、一般住民が直接戦闘に参加した(させられた)ことだと言われる。徴兵令にもとづく兵役から漏れた満一七歳から四五歳の男子は防衛隊として(実際には一七歳未満、四五歳以上も召集された。中には病人や身体障害者まで召集した例もあったという)、中学生以上の生徒は男女を問わず学徒隊として戦場に駆り出されたのである。

 比嘉さんによれば、第三二軍司令部発令の防衛召集計画により、県学務課と日本軍司令部間で「県下中等学校鉄血勤皇隊結成に関する構想」が策定され、県下一二中学校、八女学校の少年・少女たちが戦闘に参加させられたという。子どもたちの勉学を保障すべき学務課が、率先して戦場に追いやったことに驚きと怒りを覚えると同時に、中学生の息子を持つ親として背筋が寒くなった。何の法的根拠もなく、軍の命令一つで、たくさんの子どもたちがその未来を絶たれたのだ。「本土」でも学徒動員はあったが、それが戦争末期、軍需工場や陣地構築に駆り出したのと比較しても、沖縄の人々の命がいかに「捨て石」として軽んじられていたかがわかる。

 一九四四年、比嘉さんが三中の三年生(一五歳)であった二学期、宇土(うど)部隊が名護に駐屯するようになり、以来、校舎は兵舎に変わった。それまでも、飛行場造りや防空壕掘り、陣地構築、対戦車用地雷運びなどに動員されて授業どころではなかったが、翌四五年の年明け早々から、三年生(一四〇〜一五〇人)は軍事教育を受けるために宇土部隊に入隊させられた。三年生が対象になったのは、大本営は、米軍の沖縄進攻は五〜六月以降になると判断し、四・五年生はその頃既に学校を離れていると考えたからだという(四三年の「中等学校令」で修業年限が五年から四年に短縮されていた)。

 比嘉さんは本部(ほんぶ)付き通信隊(有線・無線および暗号班)に配置され、有線班員として二カ月の訓練を受けたあと、志願入隊し(させられ)、本部(もとぶ)半島での任務につく。「志願」とは名ばかりの実質強制だが、「志願」した人には補償がないのだという。親たちの中には「戦争に行かせるために三中に出したのではない」と反対する人たちも少なくなかったが、軍事教育・皇民化教育をたたき込まれた少年たちは、自分で書類に印鑑を捺(お)して(やんばる各地から三中に集まった生徒たちは寄宿舎に住んでいるので、たいてい親の印鑑を託されていた)「志願」したと、比嘉さんは語った。当時、三中には一〇数人の南米二世(沖縄から南米へ移住した人々の子ども)が日本の教育を受けるために在学していたが、彼らは親元からの送金が途絶えたため生活が苦しく、やむなく少年航空兵(一五歳から入れる)に志願していったという。

 比嘉さんたち有線班の仕事は、戦時有線電話の電線設置、故障の修理、破壊された箇所の復旧工事などで、空襲や艦砲射撃が次第に激しくなるなか、常に電話機と電線を持って部隊の後を追った。時には伝令として使われることもあり、「電線を設置するのは山の尾根部で、いちばん敵の標的になりやすいところだが、いつも野ざらしで、戦闘が激しくても壕に入ったこともない」と比嘉さんは語る。戦争が負けてくると電線を撤去して回るのも、有線班の仕事だった。

 四月六〜七日、名護や本部半島に米軍が上陸。四月一六日には比嘉さんも、やんばるで最も激しかったと言われる真部山(まぶやま)の戦闘に参加した。空爆や敵との攻防戦で中学兵を含むたくさんの兵隊が戦死。手榴弾戦や突撃によって死んだ者も多い(大浦の宮里弘子さんは、真部山で戦死した息子の遺体を捜しに行った時のことを「山の麓からてっぺんまで(兵隊たちが)並んで死んでいた」と表現した)。比嘉さんは傷ついた友人を肩に担いで、呻き声を上げる負傷者と物言わぬ死者たちの間を潜り抜ける。

 戦時教育をたたき込まれたとはいえ、一四〜一五歳の子どもたちにとって、弾が飛び交う戦場の恐怖は並々ならぬものだった。比嘉さんは「頭にかぶった鉄兜の中に、からだ全体を入れているつもり」で恐怖と闘ったという。「心臓が、胸の中ではなく、頭の中でドンドンするんですよ」。

 砲弾が近くで炸裂すると、あたりが黄色に染まり、「まるで黄泉(よみ)の国のようだった」。あまりの恐怖に文字通り腰が抜けて立てず、「ホーヤー、ホーヤーしながら(手をついて這いながら)」その場を離れたこともあった。

 敗北した日本軍は多野(たの)岳へ転進(退却のこと)することになった。六日間にわたる命がけの敵中突破の逃避行を経て、ようやく多野岳頂上の部隊にたどり着いた比嘉さんを待っていたのは、思いもかけない「中学兵の解散式」だった。戦局が不利になったので、足手まといになりそうな少年たちを体よく放棄しようということだっただろう。最後まで付いていく覚悟をしていた比嘉さんたちは戸惑った。ほとんどの生徒たちが少しばかりの食糧を与えられ、増産隊名目でオーシッタイ開墾地へ向かったが、比嘉さんは遊撃隊に入れてもらい、多野岳の戦闘に直面する。

 「解散になったのに、なぜまた遊撃隊に入ったのですか」という参加者の質問に、比嘉さんは「逃げるのが恐かった」と答えた。確かに、敵に取り囲まれた山中で「解散」と言われても途方にくれるだけだ。そうして入った遊撃隊も敵の集中砲火を浴びて四散。いよいよ比嘉さんは独りで山中を彷徨(さまよ)うことになる。山中にはおびただしい避難民や敗残兵が、敵の目を逃れ、食糧を求め、肉親を捜してうごめき、彷徨っていた。比嘉さんは同僚に出会って行動を共にし、親戚に出会って食糧を分けてもらい、芋畑に侵入して主に見つかり、「二度としないでくれ」と目こぼしを受けながら、五月半ばまで名護周辺の山中を転々とした。

 五月一三日、比嘉さんを捜しに来ていた父に連れ戻され、家族と共に山中での避難生活を始める。六月二三日、日本軍司令官の自決を聞いて家族は山を下り、留守番で残った比嘉さんも、米軍の掃討戦の情報を受けて直前に下山、伊差川での収容所暮らしが始まった。


 先の体験記録集の手記を、比嘉さんは次のように締め括っている。「戦争という異常な状態では、志願を強要して少年たちを簡単にかき集め、兵隊同様防御の盾にさらし置き、不利になれば容赦なく『解散』で隊から引き離してしまう。この恐ろしい異常な体験を得て(ママ)三九年目、『市民の戦争体験記録』を編集しようの呼びかけに、このつたない手記を整理する気になった。それは未経験の世代にいつまでも語り継ぎ、二度と戦争はしてはならないと希(ねが)ったからである」(丸括弧内は引用者による)

 現在、真部山には三中学徒の碑が建てられ、鉄血勤皇隊で戦死した四二人(全体の約三分の一に当たる)に、少年航空兵や予科練、兵役で戦死した三中生を合わせた八八人がまつられている。比嘉さんは、目の前で殺され、死んでいった友人たちの最後の様子と、その無念の思いを噛み締めるように語ったあと、戦争体験のない参加者たちに訴えかけるように、「だから、有事法案には絶対に反対なんですよ」と力を込めた。