軍用地を生活と生産の場に! |
沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック |
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第138号(2002年7月28日発行) |
【沖縄報告】 故・阿波根昌鴻さんを偲ぶ会
七月二九日 那覇市民会館 「やあ」と手を拡げた阿波根さんの穏やかな顔と、わびあいの里から運ばれたいかにも南国らしい彩りのクロトンの葉つきの枝やハイビスカスの花が、会場のステージ中央で参加者を迎える。 舞台の右側には「米軍に告ぐ/土地を返せ/ここは私たちの国/私たちの村/私たちの土地」(伊江島土地を守る会の団結道場の壁に書かれている言葉)が、左側には「基地を持つ国は/基地で滅び/核を持つ国は/核で亡ぶ」(ヌチドゥタカラの家の壁に書かれている言葉)が、大書されて立っている(表紙参照)。主催者あいさつの山内徳信さんの言葉を借りれば、前者は「伊江島の主人公は伊江村民」という民主主義の根っこの宣言であり、後者は「歴史の教訓を踏まえた軍事国家への警鐘」である。 この舞台を作りあげたのは「故・阿波根昌鴻さんを偲ぶ会」実行委員会の若い人たちだそうだ。阿波根さんの播いた種は、ここにも芽生え育っている。 主催者あいさつの後は、阿波根さんが一九九七年七月の軍用地強制使用反対・第五回公開審理の際、映像で意見陳述した「阿波根昌鴻九四歳『伊江島からのメッセージ』」の上映。 続いて、阿波根さんとともに闘ってこられた伊江島土地を守る会の平安山良有さんのお話――阿波根さんの夢だった農民学校の準備は、住宅・畜舎・運動場付きの豚舎建設、乳用牛・鶏の飼育と進んでいた。土地が開放されれば再現できる。基地返還に向けて頑張りたい。 プログラムの五番目は、具志川市の小学生の平和学習の感想文朗読――阿波根さんは「戦争は人が人でなくなること、戦争は絶対だめ」と言い続けてきた。戦争は起こって欲しくない。戦争には反対です。今年三月の「わびあいの里」の資料整理には、二十歳前後の若者が三十数名も参加したが、今回は小学生まで拡がった。阿波根さんの力って、すごい! わびあいの里で一年余働いた松浦真理子さんは、阿波根さんが日常語っておられたことを伝えた後、「おじい、息子さん(農民学校の教師を目指しているとき招集され、沖縄戦で命を奪われた)に会えましたか。こちらは寂しくなりましたが、おじいの遺したものを大切に『おじい、安心してください』といえる日の来るよう努力して参ります」と話を結んだ。 二十七、八歳の時に、六十一歳の阿波根さんに出会って以来のおつきあいという新崎盛暉さんは「何故ここに参加したのか、一人一人が果たすべき役割は何か、を考え、地域に根ざした反戦・平和の運動を受け継ぎ、思いを新たに、前を向いて歩き続けよう」と訴えた。 阿波根さんを偲ぶ話の後、わびあいの里の謝花悦子さんは、参加者への謝辞の中で、阿波根さんは「金は本を買うもの。平和の武器は学習」と語っておられたことを紹介し、「阿波根さんの播いた種を育て花を咲かせるためにも、基地にされている土地を取り返したい」と決意を表明された。 「偲ぶ会」のプログラムの最後は、陳情口説(左の説明参照)が流れる中、参加者一人一人から焼香・献花に代わる阿波根さんに捧げるメッセージの献呈。 私は、余命を考えずに「『相手を責めない』――喧嘩早い私がいただいた言葉――を胸に、花を咲かせる土づくりに励み、阿波根さんの遺志「農民学校実現」を目指して、あと三十年頑張ってから行きます。それまで、ゆっくり待っていてください」と書いてしまった。 「偲ぶ会」は、メッセージの献呈をすませて流れ解散ということだったが、参加した七百人の人たちは、実行委員の皆さんと一緒に後かたづけをしたり、ロビーの展示(阿波根語録、沖縄戦や土地闘争の写真、平和学習の記録など)を見入ったりと、老いも若きもすぐには去り難いようだった。 受け付けにいた相棒の話によれば、参加者の中には七月二八日のタイムス・新報に掲載された全国各地からのカンパによる一ページ全面意見広告(戦争世に抗い平和世を求め 阿波根さんのあしあと)を見たので来ましたという人、旅行途中の通りすがりの者ですがといいながら入ってきた人など多士済々だったとか。 二〇〇二年七月二九日、那覇市市民会館で開かれた「故・阿波根昌鴻さんを偲ぶ会」は、その生き方がたくさんの人々に感銘を与え、平和の種を播き続け、「あの世へ行っても平和運動をしなくちゃならないのかねえ」と言っておられた阿波根さんを偲ぶ会、いや、阿波根さんを偲び、その遺志を受け継ぎ行動することを誓う会と言った方がいい集いにふさわしいものだった。 (O)
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