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第136号(2002年5月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 25
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 名護市が二〇〇〇年七月に発刊した『五〇〇〇年の記憶――名護市民の歴史と文化』という本が、私の手元にある。二〇〇〇年は、名護市制三〇周年であり、また九州・沖縄サミットが名護市で開催された年でもあるが、この本は、それらに合わせて刊行された名護市の通史だ。その巻末に掲載されている「名護市歴史年表」を捲(めく)りながら、ふと目に留まった項目に違和感を覚えた。

 「一九二九(昭和二)年 癩(らい)保養院設置問題がおこり、地元喜瀬・幸喜・許田三区民が反対を表明して決起し、名護校で町民大会を開き世論を喚起する」

 まるで、名護市民が新たな基地建設に反対して「決起し」、「世論を喚起」したのと同様であるかのような表現が、心にひっかかった。むろん、らい保養院(療養所)建設は、前回触れた「らい予防法」(一九〇七=明治四〇年制定)にもとづいて、政府が各県に設置を義務づけた患者隔離政策であったし、また、地元住民の意思など聞かず、上から押しつけようとしたものに反対する「住民運動」であったという意味では理解できるのだが、その根底に、この病への無知と偏見、病者に対する社会的差別があったことを思うと、複雑な気持ちになる。


 一九二九年二月と言えば、青木恵哉(けいさい)牧師が救らいのために、熊本回春病院から沖縄に派遣されて一年余り経った時期だ。青木著『選ばれた島』(一九五八年出版、七二年復刊)によれば、回春病院長ハンナ・リデルに沖縄の悲惨な病友を救うよう命を受けた青木さんは、初め気が進まなかったという。「‥‥沖縄と聞いただけで、あの恐ろしい毒蛇を連想した。言語風俗も異なるところである。かつライを嫌い、無知と迷信がライにつきまとうこと内地以上である。さらにわたしの気を臆せしめたのは岸名兄の不成功であった。彼は大正八年(一九一九年)、勇躍沖縄伝道に出かけたが、数々の迫害を受けて望みを果たさず、空しく帰ってきたのであった。」

 文中の岸名兄とは、同じ回春病院の患者であった岸名信若という人で、最初に伊江島に渡り、村を離れた海岸に小屋を建てて住んでいた伊江島の患者たちと起居を共にしながら、キリスト教の伝道を開始したが、「ヤマトクンチャー(大和らい者)」と罵られ、投石され、村役場に退去を命じられ、病者たちも村人に気兼ねしてよそよそしくなり、伝道は行きづまってしまったという。しかたなく伊江島を出て、本部(もとぶ)半島や国頭(くにがみ)を歩き回ったが思わしくなく、名護では「内地」の砂糖商人殺害事件で「浮浪らい者」に嫌疑がかかっているとのことで警察に捕えられ、釈放後も迫害を受けて、一年後に傷心のまま引き揚げたというのである。

 しかし青木さんは、「『渡りてわれらを助けよ』と叫ぶ沖縄の病友の必死の声が聞こえるような気が」して、次第に「沖縄に関心をもち始め」、ついに来沖することになる。そして、彼の救らい運動もまた、苦難に満ちた棘(いばら)の道であった。


 一九八八年発行の『名護市史本編11 わがまち・わがむら』は、名護市五五行政区(字)それぞれの風土・歴史・文化等を伝えているが、各区の紹介と肩を並べて「愛楽園」の項を設けている。愛楽園のある済井出(すむいで)区とは別に、「一つの病を縁とした人びとの集落」(同書)として愛楽園をとらえ、紹介しているのだが、その中に興味深い指摘がある。

 「‥‥日本本土におけるハンセン病史によると、聖徳太子や光明皇后等の仏教によって培われた慈悲、あるいはキリスト教伝来後は隣人愛等に基づく救済の事績が数多く伝わっている。しかし、わが沖縄には全くそれがなく、口碑・伝説も忌避一途の感がある。思うに、これは宗教の伝来が本土よりも遅れたために、ひたすら『御嶽(うたき)信仰』『ユタ・サンジンソー』に頼ってあらゆることを判断したからではなかったろうか。」(筆者・島袋栄喜氏)

 私は筆者の意見に必ずしも賛成ではないし、御嶽崇拝やユタ信仰が仏教やキリスト教よりも劣っているとは思わないが、沖縄におけるハンセン病を考える場合の一つのヒントではあると思う。
 『五〇〇〇年の記憶』の年表に戻って、前記一九二九年二月以降、一九三八年一一月の愛楽園開園(当時は県立。四一年七月に国立療養所となる)に至るまでの関係項目を拾ってみよう。

三一(昭和六)年三月
羽地村民、癩患者収容所設置に反対(〜三二年、嵐山事件)
三二年三月
癩療養所設置反対で羽地村役場前にて村民大会を開く

嵐山保養院設置に対して羽地村各字青年団決死総会を開く
同五月
羽地村理事者全員、総辞職を声明

羽地の四ヵ字民一〇〇〇名、保養院設置反対を叫び名護町に一大示威運動を展開
同六月
保養院設置反対で羽地・今帰仁両村連合村民大会を開く
同 
羽地小学校の児童、ストライキを決行
同 
羽地村役場内に保養院反対の同盟本部をおく
同 
羽地村の自治機能停止
同 
羽地村税不納同盟を組織
同 
羽地村長職務管掌襲撃事件で一五名起訴される
同一〇月
嵐山癩保養院問題、依然として反対運動続く
同一一月
羽地村議選挙、一人も投票せず
三五年六月
癩療養所設置運動を続ける青木恵哉らに対して、屋部焼き打ち事件おこる
三七年
この年、済井出の大堂原(うふどうばる)にハンセン病患者の住宅をつくる

(註:羽地も屋部も現在の名護市に含まれる)

 「嵐山事件」として知られる一九三一年の癩療養所設置反対運動は、第一次大戦後の世界的な不況や全国的な昭和恐慌を背景に、「ソテツ地獄」と言われた沖縄の経済不況がなお続き、経済・社会不安が高まる中で起こった。同じ年、大宜味(おおぎみ)村で、村政を独占する一部支配層に対し、青年層を中心とする村政革新運動が起こり、民主化や減税、大衆的福祉の要求を掲げ、村長の退陣を求めて村民大会を開くなどしたが、これが嵐山の反対運動と結びつき、大デモを展開するなど、運動は激化していった。ここでも先頭に立ったのは青年団だった。羽地村長以下全役場職員の総辞職による自治機能停止、住民一〇〇名余の検挙と一五名の起訴に至ったこの事件には、さまざまな要素が複雑にからみあっている。

 秘密裏に療養所を設置しようとした県行政に対する地元村と住民の異議申し立て、税金の不払いや児童のストライキまで含む民主化の要求でありながら、それが、民主化の対極にある、らい病への偏見、差別に裏打ちされていたという事実を、私(たち)はどう考えればいいのだろう。私が不勉強で知らないだけかもしれないが、この事件の検証は、いまだ充分なされているとは言いがたい。

 ユタを排斥する近代化が、必ずしも差別や偏見をなくしていくことにつながらないように、反権力の革新運動が自らの内部を「革新」していくことの難しさは、今も昔も変わらない。「嵐山事件」は、決して過去の事件ではなく、私たちの現在を「歴史の窓」から照射しているような気がするのだ。


 沖縄に上陸し、「どん底に身を置い」て活動を始めた青木さんが見た沖縄の病者たちは、住み慣れたシマを追われ、人里離れた隔離小屋で極貧の暮らしをしながらも、たくましく生きている。『選ばれた島』の中から、その一端を紹介しよう。

 「‥‥病友たちはくり舟の操縦がとてもうまい。指のないすりこ木のような腕の先に帆綱を巻きつけ、あるいは櫂を結びつけて舟を走らすのだが、その挙動はあたかも曲芸を見ているようである。風を一杯うけて今にもはり裂けんばかりの帆の帆綱に抗して身をそらす時は、その体は舟の中にはなく水の上にあってあぶなくてひやひやする。風がなくて漕ぐときの櫂さばきは極めて無造作だが、舟は軽くすべり自由自在に方向をかえる。‥‥

 彼らはまた魚を捕るのが上手である。もり一本携えて海にとびこみ、忽ち大きな魚やたこを突いてくる。‥‥新鮮なサシミをたらふく食べた。‥‥」

 このような人びとを療養所に隔離したのが、らい予防法だった。生まれ育った家を出され、物乞いに歩かなければならなかった人びと、社会的に打ち捨てられ、病気の手当も受けられず、苦しみながら死んでいく人びとを悲惨な情況から救うことは、もちろん喫緊に必要であり、青木さんたちは宗教的使命感をもって療養所建設に心血を注いだのだが、その療養所が逆に、ハンセン病に対する社会的差別と偏見を固定化したのも事実である。歴史にもしもは許されないが、名護の療養所建設反対運動に、病気の正しい知識と、病者との親しい交わりがあったら、沖縄のハンセン病の歴史は変わっていたのではないかと夢想してみたりする。
                                  (この項続く)