軍用地を生活と生産の場に! |
沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック |
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第136号(2002年5月28日発行) |
『復帰』三十年 今こそ考えよう
まーかいが沖縄 まつりのあとに…… 五月一二日の豊島公会堂のイベントにはずいぶんたくさんのお客さんが来てくれましたね。老若男女、とくに若者の姿が目立ちました。貴納昌吉ファンか、それとも『マリーとヘンリーの……』の関係者のそのまた関係者か、はたまた沖縄(問題)に関心を持っている人たちなのか……。いずれにしろ、若い人がこういう場所へ来てくれるのはまことに結構、と思ったものです。 ある時期まで、沖縄出身者はそと目でわかったものでした。この頃では、色白の涼しい顔をしたホッソリ体型の「沖縄青年」によく出会います。会場でもしかり。復帰後三十年、「異文化交流」のすすんだ証でしょうか……。 伝説の芝居『マリーとヘンリーのマスカレード』を観て、一言記すならば、パスポートを持って本土へ渡航してきた我々は、復帰後世代にとって、もはや「歴史」なのだなということでしょうか。歴史というのは、放っておいてもそのうちわかって来るというものではなく、語って、教え、学ばせなければ理解できないのだと言うこと。かつて「戦争を知らない子どもたち」と呼ばれた世代が「復帰を知らない子どもたち」へ伝えられるものは何なのでしょうね? 最後に、友人知人のつぶやきを。
(H)
「まーかいがー沖縄」に参加して 「固き土を破りて、民族の怒りに燃える島、沖縄よ……。」 私がまだ若かったころ、何か集会があると必ずこの歌を歌いました。 これが私と沖縄の出会いだったとも言えます。折しも、沖縄復帰をはさんでさまざまな行動がなされていた時代でした。ベトナム戦争のまっただ中でもありました。 あのころ私は、「沖縄が日本に復帰するのは当然だ」と単純に胸を熱くし、本気で『沖縄を返せ』を歌っていました。それなのに、よく耳をすますと、沖縄返還に異議を唱える人達がいました。勉強しない私には何がなんだかわかりませんでした。 その後、沖縄に出かけた皇太子に(現天皇)に石を投げた青年がいたり、東京タワーに上ってビラをまいた人がいたり、沖縄は常に私の心の中にひっかかり続けました。それから、沖縄のことを勉強し始めました。 そして知り合ったのが、上原成信さんであり、一坪反戦地主会でした。 今では沖縄のことが少しわかるようになりました。沖縄の人たちが復帰に期待し、何に異議を唱えていたかもわかったと思っていました。 ところが、『マリーとヘンリーのマスカレード』は、さらに強烈な沖縄を突きつけてきました。マリーやヘンリー、ケンにエンジェル、みんな沖縄出身であることを隠し、生きていこうとしていました。沖縄ではなく、「本土並み」になりたかった……、 沖縄の何を捨てたかったのでしょうか。何から自由になりたかったのでしょうか。貧しさや米軍支配下の閉塞感、ヤマトンチュからの差別……。見ていて頭の中がクラクラしてきました。そして、再び沖縄に戻ったヘンリー(タルガニ)の「本土並みだ」という台詞とその場面は、―塾に通う弟、カルチャーセンターへ通うお母さん、やさしいパパに変身していたお父、そして、スカイラークで食事をしようと言う―思わず大笑いしてしまったけれど、あれはまさに、今の日本人の暮らしや心のあり方を突いていたし、本土復帰で失ってしまった沖縄の心を現していると思いました。 喜納昌吉さんも名古屋へ向かう予定をとりやめて参加された打ち上げは、ちょっぴり緊迫した討論のあと、沖縄を離れて生活している人たちが、沖縄に残ってがんばっている人たち、アイヌや在日の人、更に、世界中の人々とつながっていけるような活動をしていこうと確認しあいました。肩を組んで、みんなで歌った『花』。――夜の公園は寒かったけれど、となりの人のぬくもりを感じながら歌うのは快かったです。 『沖縄を返せ』から『花』に替わった、私の沖縄との三〇年の関わりを考えながら、西部山沿いにある自宅にもどりました。よい会を企画してくださって、ありがとうございました。 (K)
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