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第131号(2001年12月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 21
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 辺戸(へど)区と区民が村長と村を相手取って行なった建設差し止めの仮処分申請(六月一一日、那覇地裁に提訴)で最大の争点となったのは、最終処分場予定地とされた山林(村有林)に、辺戸区と区民の「入会権(ないし旧慣使用権)」があるかないか、であった。

 辺戸区の申立書によると、入会権とは「慣習上の山林利用権(持分権)および山林処分や現状変更に対する慣習上の同意権」である。やんばる地裁における山林の入会権は、琉球王府時代からの伝統を持つ地域住民の権利で、王府林でありながら地元村(現在の部落=区に当たる)が共同で保護・管理し、その代償として、王府の御用木・禁止木以外は村人が自由に伐採・利用できた杣山(そまやま)制度に根拠を持っている。明治の琉球処分(廃藩置県)後も、しばらくは旧慣温存政策が取られ、一九〇六(明治三九)年の「杣山処分」によって村有林となったものの、入会慣行は存続してきた。地元部落の権利が現在も続いていることは、やんばるに住む者にとっては常識である。

 たとえば私たちの地域では、米軍キャンプ・シュワブや弾薬庫、実弾射撃演習場(山が標的にされ、赤い地肌をさらしている)、不発弾処理場などを抱える辺野古(へのこ)区には毎年、多額の軍用地料が入る。米軍に提供されている山林の所有権は名護市にあるが、地元部落の入会権にもとづいて、そこからの収益は市と地元区で分収している(その割合は五対五、四対六等だが、辺野古の場合は未調査)。部落背後の市有林をゴルフ場に貸しているわが安部(あぶ)区についても同様だ。


 国頭(くにがみ)村の言い分は、村有林だから、処分場建設について辺戸区や区民の同意は必要ない、というものだった。予定地とされたユシファ山の入会権は消滅しているというのである。この、事実に反する無理な主張は、辺戸区民を怒らせた。もし入会権が否定されるなら、ことは辺戸区だけの問題ではない。やんばる全域の各部落の利益を守るためにも負けられないと、辺戸の人びとは決意した。

 やんばる地域の各部落の範囲は、海に面した集落から背後の山にかけて、海岸線から分水嶺までの細長い形をとっている。これは、生活手段のほとんどを地元の自然に頼っていた時代の名残(なごり)で、どの部落の人びとも、海岸の平地、山裾、中腹、尾根と、それぞれに違う自然の恩恵を等しく受けられるように分割されていた。薪や木材、竹(琉球竹は家を作る材料として欠かせないものだった)など、自分の部落の範囲なら自由に取ることができたが、よその部落の範囲から枯木一本でも取ろうものなら、部落同士の喧嘩にまで発展するほどだったという。

 辺戸区民が処分場問題をきっかけに、建設に反対するだけでなく、自分たちの出すごみの行方を考え、ごみを減らし、自然と共生する生き方を追求していこうと立ち上げた「環境青年団(平均年齢七三歳、「むかし青年団」とも言う)」の団長でもある玉城増夫さん(八二歳)に、辺戸の人たちが山や海とどんなふうにつきあってきたのか、お話をうかがった。

 「昔の生活は山が頼りだった。山から薪(まき)を切り出して海岸に下ろす。そこから船やトラックで那覇や中南部に運び出すんだ。薪一束(長さ約六〇センチ、直径約二〇センチ)が一銭二厘。夫婦で一生懸命働いて、一日に一五〇〜二〇〇束くらい出せたかなぁ。その一割は山口銭(やまこうせん)として部落に納めた。そのために、各部落に山係がいたよ。村とは関係なく、部落で半年とか一年とか期限を決めて人に依頼するんだ。みんなから集めた山口銭は、部落全体のために使われた。」

 玉城さんはかつて、部落の共同売店の主任を務めたことがある。夜になると、部落の人びとが持ってきた薪の束を勘定する仕事があった。人びとは、出した薪の金額から山口銭を引いた分だけ売店の品物を取ることができたし、必要な人は現金をもらうこともできた。

 「子どもたちも学校から帰ると、みんな山に薪取りに行ったものだが、よその山からは一本も切れなかったよ。それに違反したら罰則があった。取った薪はもちろん、ナタや籠などの道具もぜんぶ没収された。」

 「戦後すぐは辺戸に四〇〇人もの人が住んでいた。ほかに仕事がないから、乳飲み子を抱いても薪取りに行った。子どもを山に寝かせておいて仕事をしたんだ。」

 戦後は食べ物がなく、蘇鉄(そてつ)の幹を削って浜に干し、川に三日間ほどさらしてから煮て食べたという。蘇鉄はアク抜きが充分でないと命にかかわることもある。

 興味深かったのは、蘇鉄で酒を造ったという話だ。ドラム缶にパイプをつけて蒸留したらしい。具体的な造り方をぜひ聞いてみたいと思ったが、玉城さんは若い頃、「本土」出稼ぎに行き、戦後に帰郷したので、実際に体験したことはなく、知らないという。「造って売った人はだいぶ儲かったそうだよ。」

 社会的な秩序がまだ回復していない(ある意味で自由な)戦後の一時期、各地で「密造酒」造りが行なわれたのは聞いたことがある。なんだかわくわくする話だった。

 部落に山係がいたのは、「復帰」前ごろまで。燃料が薪から化石燃料へと変わり、薪を出荷しなくなってからも、各戸で飼っている豚の餌を煮るためなど、自家用の薪を取っていたという。辺戸の人びとが体を張っても山を守ろうとするのは、命と生活を支えてくれた山への深い感謝があるからだ。「命の恩人」への恩返しと言えるのかもしれない。


 山の入会権のことは、これまでにもいろいろ聞いていたが、海にも入会権があることを、私は玉城さんの話を聞いて初めて知った。

 ユシファ山の下には、ユシファ浜と宇座(うざ)浜がある。どちらも、遠い昔から辺戸の人びとに豊かな海の恵みを与えてきた。人びとの海に対する愛着の深さは、潮の引いたイノー(珊瑚礁の内海)に現われる地形の一つひとつに、それぞれの名称がつけられていることからもうかがえる。辺戸の人びとは先祖代々、このイノーに出て貝や魚を捕ってきた。貴重な蛋白源を与えてくれる海も大切な共有財産だったのだ。

 「昔は海も分けて使っていたよ。区画を区切って、一年ずつ交替で使う。入札でその権利を買うと、一年間は、買った人がそこで自由に捕っていいんだ。権利を売ったお金は部落の収入になる」
 イノーの一部は権利を売らず、部落の共有の海として、年に何度か部落総出で漁をし、獲物はみんなで平等に分け合ったという。今でも潮が引くと、オジィ、オバァたちの胸は騒ぎ、足は自ずと浜へ向かう。タコ穴のことを目を輝かせて語るオバァの表情がまぶしい。

 ユシファの浜は、沖縄島の中で最も重要なウミガメの産卵地でもある。もしも最終処分場ができれば、そこからの廃水はこの浜に流れ出し、海も、海の生きものたちも殺されてしまうのだ。


 国頭村は、辺戸区と区民に入会権がないという自らの主張を裏づける有効な反論を打ち出すことができないまま、裁判は九月二五日に結審した。敗訴を予感し、あせった村長が引き起こしたのが、前々号の冒頭で書いた強行着工の惨事だった。この強引なやり方は、裁判官の心証をいっそう悪くしたと思う。一〇月三日、那覇地裁は、辺戸区民の申し立てを全面的に認め、「建設してはならない」という決定を下した。

           (以下次号

《追記》
 玉城さんの家には、もう辺戸区でも他(ほか)に見られなくなった五右衛門風呂と昔ながらの竈(かまど)がある。「見においで」と言ってくださったので、わくわくしながら見に行った。私も子どもの頃は五右衛門風呂に入っていた。体重が軽いので、木で作ってある底板(これを敷かないと、鉄でできた釜に直接足が触れて火傷することもある)をなかなか沈めることができず、四苦八苦したのを覚えている。竈も、母がご飯を炊いていた竈と同じで、懐かしかった。どちらも、四〇数年前に家を建てた時のもので、今も使っているという。

 「新しく作り替えようとも思ったけど、みんなが、もったいないから残しておけと言うので、残してあるよ」と、玉城さんは誇らしそうに言った。