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第129号(2001年10月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 19
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)


 九月二〇日朝、私は友人からの電話で起こされた。「たいへんよ! 今日、着工すると新聞に出ている。私も仕事を休むから、辺戸(へど)へ行こうよ」。

 その日の予定をキャンセルし、宜野湾(ぎのわん)から来る友人たちと合流して、私たちは沖縄島最北端の辺戸へ向かった。そのひと月余り前、私たちは、国頭(くにがみ)村が地元住民(辺戸区民)の権利も意思も無視して押しつけてきた一般廃棄物最終処分場建設に反対し、工事を強行しようとする国頭村と請負業者を監視する活動を続けている住民たちを、建設予定地前に建てられた監視テント小屋に訪ね、お話を聞いたのだった。村会議が工事の請負契約を可決した直後の六月二八日から、一日も欠かさず、区民総出の監視活動が続けられていた。総人口約一三〇人、その三分の二が六五歳以上だという辺戸区のオバァ、オジィたちが、テントの下とはいえ、厳しい暑さの中で座り込んでいる様(さま)が蘇ってくる。

 観光地になっている辺戸岬を過ぎ、辺戸の集落も過ぎて、国道から少し山中に入ったところに建設予定現場はある。私たちが着いたとき、業者による伐採がすでに始まっていた。朝七時半頃、上原康作(やすなり)村長が、役場職員や業者、それに村内一七区(国頭村には二〇の区=字、集落があるが、そのうち辺戸および隣接二区を除いて)から五人ずつ動員した村民を引き連れてやってきたという。その数約一五〇人、急を聞いて駆けつけた辺戸区民約六〇人の倍以上だ。

 私たちの姿を見た区民の新垣ヨシ子さんが駆け寄ってきた。「木に抱きついて切らせまいとしたんだけど、寄ってたかって引き剥がされてしまって……」。あとは声にならない。握りあった手から、ヨシ子さんの悔しさと悲しみが伝わってくる。「毎日、手で撫でながら『必ず守ってあげるからね』と話しかけてきた木だったのに……」

 村長の「かかれ!」の号令一下、体を張って伐採を阻止しようとするオジィ、オバァをごぼう抜きし、一人を数人で取り囲んで動けなくし、チェーンソーを持った業者を総動員された役場職員がガードしながら、工事は始められた。

 「あぁ、チェーンソーの音を聞く度に胸がかきむしられる」と、テントの中にいたオバァが振り絞るように叫んだ。「これだけ育つには何十年もかかるのに、チェーンソーで切ると何秒もかからない……」

 役場職員や業者ともみ合って怪我をしたという男性、首をひねられて痛くてたまらないというオバァなど、「負傷者が五人出た」と、区長の石原昌一さんが厳しい顔で語る。と、またもや谷間の方から聞こえる悲鳴。テントの回りは騒然となった。担ぎ上げられてきたのは、区民の上江洲和子さん。辺戸の人たちが、処分場に反対するだけでなく、自分たちの出すごみを減らし、自然と共生する暮らしを追求して、他の村民の模範になろうと立ち上げた「環境青年団(平均年齢七三歳。「むかし青年団」とも言う)」の最年少(六一歳)で、事務局を務める和子さんは、監視活動でも中心を担ってきたが、その過労と、強行着工のあまりのショックで倒れたのだった。

 作業はそこでいったん中断されたが、和子さんと、それに付き添ったヨシ子さん(彼女も、車中で意識を失ってしまった)を乗せた救急車が遠ざかるや、再開されたチェーンソーの轟音。村長には血も涙もないのかと、新たな怒りが渦巻いた。

 翌二一日も伐採は続いた。区民たちは山の谷間に散らばって座り込み、抵抗を続けたが、座り込んでいる人の回りだけを残して、木は次々と切られていく。この日は、知らせを聞いた辺戸の郷友会(辺戸出身で他所に住んでいる人々の集まり)の人たちも来ていっしょにがんばっていた。役場職員の阻止線を突破して駆け出す人。追いかける職員たち。七〜八人がかりで押さえ込まれた青年が抗議している。辺戸で農業に未来を託す佐久真克也さんだ。

 私は区民の新里照子さんと二人、十数人の役場職員の阻止線の前に座り込んでいた(というより、彼らが私たちの前に立ち塞〔ふさ〕がったのだが)。孫の年ほどの職員たちに向かって、照子さんは人としての道理を静かに説いている。人口約六〇〇〇人の小さな村は、ほとんどが顔見知りだ。中には血縁の者もいただろう。「あと二〇年経ったら、オバァの言っていたことがほんとうだったなぁとわかるさぁ」と、照子さんが語りかけると、うつむいて目をしばたたかせる人、内心の動揺を隠すように薄ら笑いを浮かべる人、無表情を取り繕う人……。悲しい光景だった。

 業者も、辺戸区民と互いに知り合いの村内業者。「『ごめんね』と泣いていた人もいるけど、泣くぐらいなら来なければいい」とヨシ子さん。「昨日は私もワーワー泣いたけど、今日はもう涙も出ないさー」。昨日、点滴してもらったので、少し元気になったという。

 二日かけて建設予定地の八〇%を伐採した村は、三日目(二二日)に、とうとう重機を持ち込んだ。人々のまだ覚めやらぬ未明だったが、業者筋から通報してくれた人がおり、大急ぎで駆けつけた区民たち(誰もが、何かあったらすぐ飛び出せるように、作業服のまま寝ていたという)との攻防が展開された。重機の前に身を投げ出そうとする区民たちの必死の抵抗に、業者もさすがに作業を続行することはできず、工事は中断された。


 国頭村の一般廃棄物最終処分場の強行着工の様子を延々と書いてきたのは、そのあまりの理不尽さを伝え、編集部のお許しをいただいて、これから三〜四回にわたって報告しようと思っているこの問題の導入部としたかったからである。

 国頭村は沖縄島のいちばん北に位置し、広い村域の九〇%を山林・原野(米軍用地=海兵隊のジャングル戦闘訓練場を含む)が占める山村である。地球上でも希有(けう)の亜熱帯照葉樹林に覆われ、ノグチゲラやヤンバルクイナをはじめ、多種多様の固有の動植物が生息するやんばるの森の中核部分は、国頭村にある。世界遺産の候補ともなっている、すばらしい自然を持ち、そこに育まれた伝統文化を保っている国頭村で、こんな理不尽がまかり通っていることを私は信じたくなかったし、気にはなりながらも、村内の問題は村民どうしで解決すべきであり、よそ者は首を突っ込まないほうがいいと思っていた。

 しかし八月のある日、旧知の友人・新垣優子さんからかかってきた一本の電話が、私の足を辺戸へ向かわせた。優子さんは辺戸出身で現在は神戸在住。前述の新垣ヨシ子さんの娘である。優子さんのおつれあいの古坂良文さんは、辺戸区と区民一一五人(隣接区民数人を含む)が六月一一日、那覇地裁に提訴した、区の入会権と住民の環境権に基づく建設禁止の仮処分を求める裁判の区側弁護士の一人だ。

 「浦島さん、助けて」と、優子さんは電話の向こうから言った。切羽詰まった声だった。辺戸の人たちがまったく知らないところで建設計画が決められ、有無を言わさず進められていること、係争中にもかかわらず、村長は工事を強行しようとしていること、予定地の山とその下の浜は、辺戸の人たちが昔から大切にしてきたみんなの財産であり、ヤンバルクイナやリュウキュウヤマガメ(どちらも国の天然記念物)が生息し、ウミガメが産卵に訪れる場所であること、それを絶対に守るんだと、オジィ、オバァたちががんばっていること……。切々と訴える優子さんの声には、愛する故郷をなんとかして守りたいという熱い思いと、炎天下で監視活動を続けるオジィ、オバァたちへの気遣いがあふれていた。

 「助ける」力など持たない私は、彼女の話をただ聞くことしかできなかったが、最後に思わず、「辺戸のオジィ、オバァたちがやっていることは絶対間違っていないよ」と言った。優子さんの話を聞いての実感だった。そして、「近いうちに必ず辺戸に行ってみるよ」と約束したのだった。
 辺戸を訪れ、オジィ、オバァたちの話を聞くにつれて、私は辺戸と、そこに住む人々に深く魅了されていった。辺戸が歩んできた歴史や、辺戸の人々が遠い昔から山や海と結んできた関係が、彼らの人間的な魅力と、今回の処分場問題への対し方の背景にあることを感じたのである。


 今回は、導入部と前置きで終わってしまったが、次回はまず、この処分場建設の発端と経過を追ってみたい。なお、一〇月三日に建設禁止の仮処分決定が出たので、現在、工事は止まっているが、村長はあくまでも辺戸に作る考えを変えておらず、辺戸区民の監視活動は今も続いている。