軍用地を生活と生産の場に! |
沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック |
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第129号(2001年10月28日発行) |
事態はまだまだ動いている最中で、分からないことはいっぱいあります。私自身、半ば途方に暮れながら島をほっつき歩いているのが実情です。何か今後の見通しめいたことを言ったり、「内幕はこうだ」式の解説はできません。これまでの経過をたどること、その周辺部にいる人々の声を拾ってみることが中心になりますので、取材メモからの中間報告的な意味で聞いて下さい。 (1)2001年上半期、南西諸島「下地島」……軍事的焦点に 今年の5月、各紙にアメリカのシンクタンク「RAND研究所」というところから5月15日に発表された報告書「The United States and Asia」の内容が報道されました。RAND研究所は1948年にアメリカ空軍の要請に応じて独立の研究機関として発足したところで、それ以来軍事研究、最近では民政分野でも数多くの研究をしているところです。琉球列島の下地島という島をアメリカの空軍が使えないものだろうかということが書かれていました。そして、じつはその報告書が出された前後に、自衛隊の誘致問題が起こったり、島にある空港に相次いで米軍機が飛来するというニュースも集中しています。これが今回の一連の取材の発端です。 (2)沖縄県宮古郡伊良部町「下地島」 まず、下地島の位置を地図で簡単に確認しておきましょう。よく出てくる三つの島の名前、宮古島、伊良部島、そして下地島の名前を覚えていただければと思います。 東京から宮古島まで、飛行機の直行便で約3時間、直線でおよそ1900キロ、那覇からでも45分ぐらい、約300キロのところに宮古島があります。この宮古島を中心に、周辺のいくつかの小さな島々をあわせたのが宮古群島。宮古島の左上半分を占めるのが平良市で、ここが地域の政治経済の中心となって周辺の宮古郡の各町村をしたがえているという感じです。 飛行機で宮古空港に降り立って車で島の西側にある海の玄関口・平良港まで15分くらいかけてたどりつき、そこから船に乗ります。フェリーで30分、高速艇なら15分ほどの洋上7.8キロのところにあるのが伊良部島です。 伊良部島の玄関口が東側の佐良浜漁港。下地島と伊良部島とは狭い海水路で隔てられているだけです。実際に訪ねてみると海で隔てられているこつの島というよりは一つの島の中に川があって、川の向こう側が下地島、こちら側が伊良部島というような感じです。両岸はところどころ森になったりマングロープになったりしていて、まるで熱帯の川という風情です。 この下地島は面積が9.54平方キロメートル。そこにデンとあるのが今回の話の中心になる下地島空港という3000m滑走路を備えた大きな空港です。空港が3.6平方キロメートル。空港関係施設に若干常駐している人がいる他は今は基本的には無人の島で、75%が県有地、残りの25%の大半が町有地と国有地です。 那覇からでも300キロ離れた離島の宮古島、そのまた離島の伊良部島、それに隣接した下地島という位置関係です。 この伊良部島と、そこに近接した下地島をあわせて行政区分上は伊良部町。人口は最盛時1960年代には1万人を越えたのですが、それがいまでは7000人弱。主な産業はサトウキビを中心にした農業と、鰹漁や近海での追い込み漁を中心にした漁業と、鰹漁の発信基地として栄えていたのが鰹漁がコスト高などで衰退してから一気に人口減少に拍車がかかった感じで、80年代から10年あまりのあいだに2000人が減りました。今、島の産業を敢えて一つ付け加えれば建設業でしょう。7000の人の人口で約60軒の建設業者があります。 (3)ぶつかり合う新旧の産業 さて、数年前からこの伊良部島周辺の海を巡ってちょっとした「戦争」が続いてきました。 この伊良部島周辺の海、とくに下地島空港の周辺の海はダイビング関係者の間ではよく知られたダイビングスポットです。各地からダイビング客がやってきてダイビングショップが仕立てた船でそのスポットまで行き、インストラクターの案内で海底散策を楽しむ。ダイビング産業はこの地域の観光をリードする地縁産業に育っています。 それに、いわば横やりを入れたのが佐良浜漁港にある伊良部漁協です。伊良部の漁師たちの近海漁はほとんどが潜りなんですね。漁師さんたち30人あまりがウェットスーツに身を固めボンベを背負い、続々と海に飛び込んでいき、集団で魚の群を網に向かって追い込む。つまり、恰好だけをとるとダイビング客たちと同じ姿をしているけど、まったく違う海の生業がある。 伊良部の前海で、例えば観光地図に載っているダイビングスポットの「トリプルスリー」という名前が付けられているところ、ここはかつて漁師たちが島言葉で「タラモツ」と呼んでいたところ。島言葉で「カヤッフェア」が『中の島チャネル』、「ナウイ」とよばれた場所が『ミニグロット』、「アカジャグノヤ」というあたりが『クロスホール』‥‥‥。要するに島言葉で呼ばれていた海域が、観光客受けするカッコイイ呼び名に変えられ、同じ空間なのに違う意味づけがされ、異なる「相」へと変えられている。 さらにもう一つ。ダイビング業者の多くが、じつは宮古島に店を構えるショップで、宮古出身者やヤマトからiターンして開業した人たちがここ15年ほどの間に次々に開業したお店ばかりです。さきほど言った伊良部近海に潜っていくお客は、宮古島に宿泊し、宮古の業者の船で伊良部近くに潜りにきて、また宮古に帰っていく。 そこで漁協の横やりです。漁協の主張はこうです。「伊良部の漁業は替りが中心で、その潜りの漁師たちの漁場をダイビング客が荒らし回って漁業に被害を与えている。漁業権の侵害だから潜るな。潜りたければ一人当たりなにがしかの海面利用料を支払え。」取材した限りではこの主張はかなり疑わしくて、ダイビングが漁場を荒らしている形跡はないし、漁業権の侵害もしてはいない。それどころか、ダイビング業者は率先して海の環境保全などに努力をしてもいる。 しかし、旧い産業の側は必死だったと思います。漁協は高速の監視船でダイビング船を追い散らし、荒っぽい人になると鋳を持って海に替ってダイビング客を脅かしたり、ときには数十艘の漁船が大挙してダイビング船を通せんぼして双方が海上で罵声を浴びせ合う、地元の新聞で投稿合戦が行われる、お互いに相手の行為の差し止めを求める裁判を起こす、損害賠償の請求が行われる。断続的にそう言うことが続いています。 新しいものと旧いものとがぶつかり合って渦を巻き、一つの潮目になっている湯所。それがこの宮古、伊良部地域だという印象を受けた取材でした。 さて、この取析の過程で、あるダイビングショップに出入りしている一人の職人に連れられて、宮古島の海岸を歩いたことがあります。連れられて森を抜けて不意に開けた海岸は、打ち上げられたモノが累々と広がる場所でした。一見すると、汚い海岸です。流木、ペットボトル、空き瓶、靴、中には自動車のバッテリーまで。でも、よく見るとそのどれもが台湾、中国、それに東南アジアからのものです。取材し始めたばかりだった当時の私は、この漂着したゴミの山を見て「国境の島」という位置をこのとき実感したような気がしました。 その位置を明確に意識して作られた地図を次に見てみましょう(次頁)。 (4)国境の島にある大型飛行場 地図の真ん中あたりにアンダーラインを引いたのが下地島です。島が小さいので●印に隠されていますが。これは、RAND報告書の中に出てくる地図です。各地名は南西諸島の南西部の空港を表しています。下の表は空港の大きさ、それに台北や台湾海峡のセンターラインからの距離を示しています。「下地島」にマークしたのはボクです。台湾海峡から下地島までは340カイリ(1カイリ=1852m)、約630キロ。 その距離感をヤマトの感覚に翻訳するために地図をもう一枚。同心円はここでは無視して、ともかく台湾と下地島との距離感を、本州の大きさの中でつかんでいただければと思います。これはRAND報告書とは無関係で、政府の沖縄関連部局のホームページから印刷したもの。距離の近さは一目瞭然だと思います。下地島と台湾海峡との距離は、だいたい東京〜神戸か岡山ぐらいの距離でしかありません。 このような地図を付したRAND報告書は、何を言っているのかを簡単に見ておきましょう。 (5)RAND報告書 このRAND研究所の報告書「The United States and Asia」は、冷戦後の合衆国の新戦略とそれに応じた空軍の配置についての提言を行ったものです。執筆者は8人からなっていて、そのうちザルメー・カリザド氏はブッシュ政権の国家安全保障会議の上級部長に就任しており、報告書自体も国防総省の委託研究の結果をまとめたものです。 今回関係するのはその第四章ですが、そこではアジアにおいて来るべき20年間に米空軍がアジアの環境変化に応じてどのような措置をとるべきかということがいくつかの項目に渡って論じられています。これまで朝鮮半島に中心的な関心を払ってきたシフトを、中国・台湾情勢、東南アジアの不安定やインド・パキスタンの核競争等に対応したシフトに切り替えていく。その一環として沖縄南部を有事利用可能な状態にしておくことが望ましい。そして例えば、この下地島にはひときわ滑走路の長い大型の空港があることは注目に値する。南方での配置換えには抵抗も予想されるから、例えば沖縄本島の潅兵隊撤退などとの引き替え条件を提示するのもいいかもしれない。こういう提言でした。嘉手納よりもグンと台湾海峡に近く、中台関係の緊張時には即応可能な場所、下地島。そこには巨大な空港がある。それにアメリカは関心を持った。「この地域は、アメリカにとっては抽象的な『位置』でしかないんだなとつくづく思った」と、この報告書を読んだ宮古島の人が言っていました。 それでは、どうして離島の離島のそのまた対岸の島に米軍が注目するような巨大な空港があるのか。一言で言えば、これは日本で唯−の訓練用空港です。旅客機が離発着の訓練を行い、パイロットたちがその技術を磨くための空港で、県営ですが国土交通省大阪航空局の職員が管制業務その他のために派遣されて常駐しています。 (6)30年前・開港前夜 今回の一連の軍事的な話題が持ち上がる30年前、それを予見させる新聞報道からこの空港の建設話が地元に激しい論争を呼び起こしました。まだ米軍統治下にあった60年代の終わり。宮古圏域全体はこの空港建設を巡って賛成反対に二分され、激しい闘争が繰り返された。争点は、この空港が米軍や自衛隊の戦略的な要衝として位置づけられるのではないかという不安と、空港を建設することによる経済効果との綱引きでした。 (7)開港までの略史 報道で調査活動が表沙汰になったことに対し、政府は日本にパイロットを養成するための訓練飛行場の調査であることを発表し、報道にある軍事利用への不安を否定。下地島はその有力な候補地とされ、地元からは宮古商工会を中心に誘致の声がすぐにあがりました。しかし、米軍のB52の発進基地ではないか、復帰後に自衛隊が使う空港ではないか、あるいは日米共同で運用される演習湯なのではないかというように、当時の革新陣営を中心に不安の声が一斉にあがり、激しい反対運動につながります。 これに対して日本航空や国などは航空大学、リゾート村、病院など、さまざまな関連施設を周辺地域に建設して一大開発を行う展望を示し、一千人もの雇用効果が望めるとぶちあげて大いに地元の期待を煽ります。 賛否両論の中で当時の伊良部村議会も揺れ動き、いったんは誘致を決議したものの、次の選挙ではわずかの差で誘致反対派の町長が当選。県は誘致堆進の立場でしたが、いったんは誘致はとん挫しかけた時期もありました。結局、琉球政府が「県営空港」「全島買い上げ、即時一括払い」を明言し、琉球政府の屋良朝苗代表が丹羽運輸大臣、山中総務庁長官との間で軍事利用の禁止の確約を取り付けた「屋良覚書」によって反対運動が一応は沈静化。1972年着工、79年には改めて県議会で軍事利用をさせないという付帯決議をしたうえで県営空港として開港します。訓練の開始は1950年で、併せて那覇との直行便も開設されました。 先日、航空自衛隊の幹部と懇意にしているある人から間接的に、もともとやはり自衝隊はこの場所に基地を建設したかったのだという話を聞きました。間接情報なので未確認という前提で聞いて欲しいのですが、その自衛隊関係者の話によれば、下地島空港建設が取りざたされた時期、自衛隊では嘉手納と那覇との距離の近さというのが問題になっていたようです。復帰後に航空自衛隊の基地をどこに置くかを考えた場合、嘉手納から距離を離し、相互にバックアップし合えるような位置関係のところに基地を置きたかった。それが下地島だったというのですね。しかし、基地建設候補地の名前が出た段階で激しい軍事利用への不安と反対の声が起き、やむを得ず自衛隊は身を引き、国は軍事利用など考えてもいないという立場を貫いて「屋良覚書」を交わした。そんな話を聞いてきたところです。 ことの真偽はともかく、「屋良覚書」「沖縄県議会付帯決議」、これ正確に言うと県議会の土木委員会というところでの付帯決議なのですが、軍事基地化の可能性という魔物を氷の中に封じ込める重石だったと言えるでしょう。その「重石」の行方が今の争点になっています。 下地島空港・自衛隊機訓練誘致問題(その2) |