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第128号(2001年9月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 18
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 二見以北十区(一〇の集落)の各集落のほとんどは、太平洋を望む海岸沿いに点在しているが、大川は、この地域には珍しく海を持たない集落である。と言っても、大浦川河口の大浦集落から車で川沿いに三〜四分溯るだけなのだが、初めてここを訪れたとき、緑の山襞を潤(うるお)す流れに沿って人家が点在するそのたたずまいが、まるで山奥の里のようで、とても懐かしく感じたのを覚えている。

 大川は、かつては隣の二見集落とともに大浦ムラの範囲だった。明治の琉球処分(廃藩置県。一八七九=明治一二年)によって職を失った下級士族の多くが、糧(かて)を求めてやんばる各地(主に山間部)に入植したが、この地域にも首里・那覇から、また中部や北部の各地(本部〔もとぶ〕、今帰仁〔なきじん〕、名護など)を経由して移住してきた人々がいた。彼らは初め、大浦川上流の山間部に入植し、山を切り開いて開墾した。平地はすべて大浦の人の所有になっていて入れなかったからである。

 彼らは山中を何度も移転・移住しながら少しずつ財を貯え、平地の土地や田畑を買い取って、次第に山を下りてきた。平地に集落が形成され始めたのは、一九〇〇(明治三三)年前後ではないかと言われている。人々は田畑や山の斜面の段畑を耕し、山仕事(薪や竹ガヤ取り、炭焼きなど)や藍造りなどで生計を支えた(ごく細い竹であるリュウキュウチクは、かつての家造りになくてはならないもので、葉のついている部分は茅葺き屋根のカヤとして使い、下の部分は床や壁、囲いなどに利用した)。ほとんどの家が炭焼きをしており、山中を移動しながら焼くので、至るところに炭焼き窯があったという。林産物や藍玉は、大浦川の河口(ウフラナート―大浦湊と呼ばれていた)にやってくるヤンバル船で、沖縄各地(藍は奄美へも)に積み出された。

 大川は昭和初期(一九三〇年前後)、二見と同時に分字して独立した行政区になった。大川や二見のように移住民を中心に形成された集落を屋取(ヤードゥイ)集落と呼び、大浦のような古い集落を本ムラと呼んだ。
 

 ヤードゥイは元士族が多いので気位は高かった(本ムラの平民とは結婚を許さないという風潮が、つい最近まで残っていた)が、生活は楽ではなかった。大川も他の集落同様、一九〇〇年代前半に、たくさんの出稼ぎ者を出している。

 大川の何人かの方のお話を聞いていて興味深かったのは、複数の人たちが「旅に出る」という言い方をしていたことである。出稼ぎと言うと、マイナスイメージでとらえられがちだが、数え二一歳で、徴兵検査の猶予願いを出して、ヤップ島に旅に出た(出稼ぎに行った)セイフクさんは、「どんなに貧しくても(あるいは貧しいがゆえに)シマの外に出る手段がなく、貧乏人はシマの金持ちにお金を借り、その利息のために使われるしかなかった昔は、もっと大変だった。旅に出られるようになって、お金儲けができるようになった」と言う。「旅に出る」ことは、単に現金を得る、お金を儲けるということだけでなく、否応なくシマに縛り付けられていた状況から移動の自由を得たということでもあったろう。

 セイフクさんたちの前には、大川からブラジルやペルーに行った人たちもいたが、シマの人々にとって、そこがどういうところか、ヤップがどんなところか知る由もなかった。しかし、家族も親戚も、「行って儲かってこい」と、送り出してくれたという。

 セイフクさんがヤップに渡ったのは、アジア太平洋戦争の始まる二年ほど前である。一年前にヤップに渡った父親の呼び寄せで行ったので、渡航費用を自分で払う必要はなかった。ヤップのさらに離島のリン鉱採掘の会社で父とともに働いたが、二人とも採掘の仕事ではなく、父は庶務、セイフクさんは会社がやっている豆腐屋の仕事だった。給料は沖縄の工事人夫の四倍だったが、ヤップ本島のほうがもっと儲かるという話を聞いて、一年後に二人は会社を辞め、本島に移る。

 ヤップは他の「南洋諸島」ほどではなかったが、それでもウチナーンチュがかなりいた。父子は、糸満出身のウミンチュ(漁民)の家にお世話になりながら(この人は沖縄と同じようにサバニと網で漁をし、セイフクさんをかわいがって魚をたくさんくれた)仕事を探し、ウチナーンチュ同士のつながりの中で、父は地元のマングローブを使った炭焼きをやり、セイフクさんは木挽き(こびき、木材をのこぎりでひくこと)の仕事に雇われた。いずれも、シマでの経験が役に立った。

 一九四二年、戦争が始まってから、父は沖縄に帰ったが、セイフクさんは「儲かって帰りたい」「故郷に錦を飾りたい」という思いもあってヤップに残った。個人で独立して、ユウナの木(後註参照)からロープ用の繊維を取る仕事をした。戦争のためにフィリピンから麻が入らなくなり、ロープの原料が不足していたので、飛ぶように売れた。当時、南洋庁の支庁長の月給が三〇〇円と言われていたが、セイフクさんの収入はそれ以上だったという。

 二千円の貯金ができた頃、ヤップでも空襲が激しくなり、「ここでお金を持っていると危ないから、早くシマに送りなさい。自分がまとめて送ってあげる」と集めて回る人に託したところ、それっきり、シマには届かずじまいだった。騙されたことを知って悔しがっても後の祭り。そのためか、セイフクさんの「旅」の後味はあまりよくないようだ。敗戦と同時にヤップから日本に帰され、シマに帰ってきたのはその一年後。先に帰郷した父は、戦時中、精神を病み、捕虜になったときに脱走しようとして撃たれ、四〇代の若さで亡くなっていたという。


 セイフクさんと同じ年に大阪に「旅に出」たのは、当時一七歳のサブロウさんである。サブロウさんによると、「当時のシマでは、男の子は学校を卒業するか、一七〜一八歳になると、ほとんどが徴兵検査まで旅に出た。女の子は結婚まで紡績に行くのが普通だった」。サブロウさんは末っ子で、父親はサブロウさんが一一歳のときに亡くなり、兄二人姉三人はすべてシマを出ていたので、サブロウさんが出ていくと、母は一人残されることになったが、「みんなが旅に出る時代だったので、母も仕方ないと思ったようだ」と言う。

 当時、大阪には大川の人がたくさんおり、シマンチュ同士の緊密な結びつきがあったので、とにかく出ていけばなんとかなったようだ。シマンチュの誰かが面倒を見てくれ、仕事も探してくれた。サブロウさんは、先に大阪に行っていた長男兄のセイジンさんと同居し、材木店で働いた。仕事が休みのときは、大川から来ている同年輩の友だちと遊んだ。職場は違っても住んでいる場所は近かった。

 サブロウさんより一一歳上のセイジンさんは父の死後、母を助けるために出稼ぎに出て、鉄工所や材木屋などで六年間働いた。サブロウさんが大阪に来て半年も経たない頃、シマの母がハブにやられて亡くなってしまったので、兄弟は帰郷する。セイジンさんは三〇歳になっていた。

 戦争が始まり、サブロウさんは四四(昭和一九)年二月に召集されて、奄美の加計呂麻(かけろま)島に配属され、セイジンさんは戦争末期の四五(昭和二〇)年一月召集、伊江島に行かされた。セイジンさんが、三原・名護・羽地(はねぢ)の人と四人で、伊江島から海に飛び込み、泳いで帰ってきた話は、今もシマの語り草になっている。伊江島にいると米軍に捕まってしまうと思った四人は、相談して脱出を決意し、夜の九時頃、海に飛び込んだ。米軍艦の監視の目を避けて、隠れたり戻ったりを繰り返しながら、明け方の五時頃泳ぎ着いたのが、現在の本部・海洋博公園の下辺りだったという。近くの海岸の洞窟に避難していた人たちが出てきて介抱してくれた。そこから伊豆味(いずみ)の山を越え、羽地の山から大川へ、山中の避難民に食糧を分けてもらいながらシマに帰り着いた。五月だった。

 サブロウさんは、戦後すぐ沖縄に帰ることができず(奄美から沖縄行きの船はなかった)、鹿児島で二〜三年暮らしてから帰郷している。現在、兄弟で健在なのは、セイジンさんとサブロウさんの二人だけ。すっかり高齢化、過疎化が進み、子どもや若い人の姿が見られなくなった大川だが、九〇歳を過ぎても毎日、畑に出るのが楽しみなセイジンさん、リウマチに苦しむお連れ合いをいたわりながら暮らすサブロウさんの元気な姿を、いつまでも見たいものだと思う。


 〔註 アオイ科の常緑小高木。屋久島、種子島以南の琉球列島、亜熱帯〜熱帯に分布。海岸の沖積地をユナといい、ユナに生える木ということから、沖縄名でユーナ、ユーナギと名づけられた。樹高四〜一二m。開花期六〜九月。花は黄色で、柱頭と花弁の底は暗紅色、夕方になると赤くなる一日花。葉はハート形、裏面に短い毛が密生。幹は通常直立せず、分枝多く、半円形の樹冠を作る。樹皮から繊維をとり、網・帆・むしろを作る。街路樹、公園樹、防風防潮林等に使われる。酸性土、石灰質土ともによく生育する。(『季刊沖縄』第一三号より要旨を引用)〕