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第127号(2001年8月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 17
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)


 サイパンの国民学校の高等科を卒業したYさんが、見習い看護婦として働いたのは、那覇出身の人が経営しているガラパンのM病院だった。当時のガラパンの地図(当時、在住していたある日本人が、記憶をもとに作成したもの)を見ると、カフェーや料亭という名のついた遊郭がたくさんある。そこには、沖縄や本土から売られてきた女性たちがいた。M病院の近くにあった遊郭にも、Yさんが就職してまもなく、沖縄から何人もの女性たちが到着したが、すぐに米軍が上陸してきたので、みんなバラバラになってしまったという。その人たちの行方も生死も、Yさんは知らない。どんな思いをして売られてきたのか。その上に、着いてすぐ戦争に巻き込まれた彼女たちを思うと、Yさんは今でも胸が痛む。

 米軍上陸を機に、M病院の院長以下、全職員と看護婦が、ありったけの薬を持って、日本の軍隊と行動をともにすることになった。軍には食糧があるし、負傷兵の手当てをする人が必要だということだった。それが、軍の命令によるものなのか、病院側の自発的な行為だったのか、知るよしもなかったが、数え一五歳のYさんも、他の看護婦と同様、腕に赤十字のマークをつけて働いた。

 小さなサイパンの島を、米軍の軍艦がぎっしりと取り巻いていて、海が真っ黒に見えるほどだった。嵐のような艦砲射撃と、上陸してきた米軍に、日本軍は追いつめられた。持参していた薬が底を突いたので、同行していた部隊の責任者は、「薬がなくなれば、軍隊といっしょにいても仕方がない。軍隊といっしょでは危ないから逃げなさい」と言って、残っている食糧をたくさん持たせてくれた。M病院の一行は、川や水のある場所を探しながら、北へ逃げた。逃げながらYさんは、海に飛び込んだり、お互いに殺し合ったり、断崖から身を投げたり、ありとあらゆる方法で「自決」している人たちを見た。親が、子どもの背中に、日本刀を突き刺しているのも目撃した。子どもを海に落として、自分たちは死ねずに残ってしまった両親もいた。

 M病院の一行は、島の北にある月見島(現在は、バードアイランドと呼ばれている)で「自決」するために、対岸で待機した。月見島では、たくさんの人たちが「自決」していた。待機中のある夜、行軍している兵隊たちが見えたので、誰かが友軍だと思って、手を振ったら、いきなり撃ってきた。もはやこれまでと、院長がみんなに薬を渡し、院長以下全員が「自決」してしまった。そのときYさんは、たまたま少し離れた場所にいたため、薬が回ってこず、「自決」を免れた。Yさんが捕虜になったのは、一九四四(昭和一九)年一〇月である。

 イモ畑の中にバラ線を張っただけのところに、一晩泊められた後、Yさんは、チャランカの収容所に連れていかれた。Yさんの姿を、すぐ下の妹(当時、数え一三歳)が見つけて、飛んできた。妹は六月に捕虜となり、姉の来るのを、毎日、収容所の入り口に立って、今か今かと待っていたという。同じように、家族の安否を知りたい人たちが、入り口にたくさん集まって、新しい収容者が来るのを待ち構えていた。

 妹を除いて、家族は全滅だった。妹の話によれば、家族は、自分たちの畑の堆肥小屋の上に作った防空壕でやられたのだった。母は「逃げられるだけ逃げよう」と言ったが、父は「どうせ死ぬんだから、家族いっしょに死んだほうがいい」と言って、動こうとしなかった。米軍上陸六日目、防空壕は爆撃を受けた。気を失っていた妹が目を覚ますと、家族全員が眠っている。しかし、いくら揺り起こしても、誰も起きようとしなかった。外傷は何もないまま、死んでいるのだった。妹も無傷だった。壕の外に出てみると、入り口付近に、たくさんの人たちが、傷ついて死んでいた。あちこちの壕を回ってみると、中にいた人たちは、同じように、無傷のまま死んでいたという。爆風で亡くなったのだろうとYさんは思う。ふらふらとさまよっていた妹は、米兵の気配に気づき、頭だけを隠していたところを捕まって、収容所に連れてこられた。家族九人のうち、七人までが亡くなったのだった。いちばん下の弟は、数え三歳だった。

 収容所には一年余りいた。四畳半くらいの広さに仕切られた部屋に、家族ごとに分けられ、荷物を枕にして寝る生活だったが、Yさんは、炊事の仕事を得て、日給三五セント(月に一〇ドル五〇セント)ももらった。収容所では、英語を習うこともできたが、女の子は危ないと言われたので、Yさんは習いに行かなかった。今考えると、あのとき習っておけばよかったと思ったりする。収容されている日本兵の中には、「日本が負けるわけはない」と言って、まだ外にいる兵隊と連絡を取ったり、作業に出る人や英語を習う人を、「アメリカかぶれ」と罵る人がいた。そういう人は、作業にも出ないので、すぐ目をつけられて捕まり、どこかへ連れていかれた。

 一九四六(昭和二一)年の一月か二月(頃とYさんは記憶している。寒い時期だったという)、Yさんと妹は、沖縄に引き揚げた。初めは、両親の故郷である南部に帰ろうと思ったが、収容所にいた屋慶名(やけな)出身のユタに、「南部は全滅している。南部の人もみんな北部に逃げているから、北部へ行ったほうがいい」と言われたので、南洋興発会社の同じ組だったHさん一家といっしょに安部(あぶ)に来た。

 Yさん姉妹は、H家とともに、新しい生活を掘っ建て小屋からスタートした。Hさん家族といっしょに住み、妹は、高校に進学したが、Yさん自身は、高校進学をあきらめ、安部の人と結婚するまで、配給所で働いた。


 Yさんは現在、美しく咲き競う花々に囲まれた自宅で、静かな一人暮らしを送っている。息子家族や娘たちが、しばしば訪ねてくるので、淋(さび)しくはない。私がお話を聞いた日も、訪ねてきた娘さんが、お茶を入れてくださった。毎年行なわれているサイパン、テニアンなどへの慰霊団に、参加しないかと何度も誘われるが、「死ぬまでに一度は行かなきゃと思いながら、まだ行ききれないでいるのよ」と言う。

 戦争は二度と繰り返したくない、と強く思うYさんにとって、日本や沖縄の現状は危機的に思える。「経済振興」と引き換えに、戦争を引き寄せる軍事基地を、受け入れてもいいという人たちが、理解できない。「食べるだけの食べ物と、少しの着物と、雨に濡れない家があれば、それでいいのに、もう充分豊かになったのに、なんで、これ以上欲しいのかねぇ・・・・」と、Yさんはため息をつく。「もう一度戦争を見る前に、死にたい」と言うYさんに、答える術(すべ)を持たない自分が情けなかった。

【註】戦時の「強いられた自死」とも言うべき「自決」については、さまざまな議論があり、私自身、その言葉を使うには大きなためらいがあるが、ここではYさんの語りを尊重し、括弧つきで使った。