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第123号(2001年4月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 13
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)


 一九二〇〜三〇年代(大正後期〜昭和初期)、「ソテツ地獄」(前々号参照)下の沖縄から押し出されるように、うら若い女性たちが紡績女工として出ていった一方、男たちの多くも、単身で、あるいは家族ぐるみで、「本土」への出稼ぎや海外移民に活路を求めて、住み慣れたシマを後にした。

 沖縄は、日本一の「移民県」だと言われる。今は廃刊になった『新沖縄文学』四五号(一九八〇年六月一〇日発行)が、「沖縄移民」の総特集を組んでいるが、その巻頭文「石鼓(いしちぢん)」によれば、「面積・人口に比較して海外移民の数が極めて高い率をみせていることはもちろん、府県別の送り出し数や移民した人たちからの送金額などにおいても上位を占めている。戦前の海外移民は当山久三の斡旋によってハワイに渡った二六人が最初で、一八九九(明治三二)年のことだ。日本の第一回移民に遅れること約三〇年だが、その後の送り出しは〈移民県〉の名の通りの『実績』を示してきた」という。それに続けて、戦後の移民について、次のように述べている。

 「施政権の分離ということもあって独自の送り出しがなされ、海外移民の再開は本土より四年も早い。(略)戦後移民は、ボリビア移民にみられる政策移民と、近親者による呼び寄せ移民という二つの型に大別されようが、特色は、政策移民のなかに米軍の強制接収によって土地を奪われた人びとが加わっていることであろう。」

 子沢山で、わずかな田畑での農業と山稼ぎしか働き口のなかった戦前の旧久志(くし)村からも、たくさんの人たちが、太平洋の荒波を越え、現金(と、それによって得られるであろう自由)と夢を求めて、ブラジルへ、ペルーへと出ていった。シマでは、一銭、二銭の現金を手にすることも難しかった時代、目的地までの渡航費用を工面するのが大問題で、その借金のために、残された家族が苦労することも、珍しくなかったという(ブラジル移民には、政府から旅費の半額援助があった一時期もある)。

 興味深いのは、徴兵忌避のために海外へ出たという例が、少なくないことだ。本人がそれを望んだ場合もあるし、親や親戚が行かせた場合もある。海外出稼ぎをすると、徴兵検査の猶予願いが許可されたのである。トートーメー(位牌)の継承者がいなくなることを恐れる、強烈なイエ意識が、そこには働いていたと思うのだが、男の子を産まない妻は、離縁されて当然とする、いわば「女の敵」であるイエ意識が、一方で「国のために死ぬ」ことを嫌ったというのは、当然とはいえ、なかなかにおもしろい。


 他の地域は知らないが、久志地域で、ブラジルやペルーに移民、あるいは出稼ぎした人の話を直接聞くことは、今や、ほとんど不可能である。現地での仕事や生活は、渡航前に聞いていたのとは雲泥の差で、とりわけ初期の移民は、雨露をしのぐ住居はおろか、食べるものも、着るものも、満足にない中で、荒れ地を開墾する過酷な労働を強いられたというが、その多くが、「故郷に錦を飾る」夢を遂げられないまま、現地に永住したか(帰りの旅費を作れず、帰るに帰れなかった人もいるし、現地で成功し、馴染んでしまった人も、もちろんいる)、少数の帰郷者も、すでに亡くなってしまった。

 ブラジルやペルーに行く人が多かったのは、今から八〇年ほど前までで、その後は、「南洋」移民に移っていったようだ。現在、少数ながら生き残って、直接体験を聞けるのは、サイパン、テニアン、ポナペ、ヤップなどの「南洋諸島」に出稼ぎに行って、帰ってきた人たち。上陸してきた米軍に、民間人捕虜として収容され、日本の敗戦に伴って送還された人々が多い。

 第一次世界大戦(一九一四〜一八年)後、日本の信託統治領になった「南洋諸島」(それ以前はドイツ領)には、多くのウチナーンチュが、農業・漁業移民として渡った。マリアナ諸島(サイパン、テニアン、ロタ、グアムなど)、カロリン諸島(ヤップ、パラオ、トラック、ポナペなど)、マーシャル諸島などの、いわゆる「南洋諸島」は、「内(うち)南洋」と呼ばれ、フィリピン、シンガポール、マレーシアなど(今の東南アジア)は、「外(そと)南洋」と呼ばれていた。

 当時、「内南洋」は、日本の準植民地だったため、パスポートが不要で、距離的にも近く、渡航費も安かった(ブラジルの五分の一)。加えて、ウチナーンチュは、「本土」の人より現地の風土に馴染みやすいということもあって、一九四〇(昭和一五)年の「内南洋」の沖縄移民は、在留日本人の七割を占める、約八万人にものぼっていたという。

 沖縄県歴史教育研究会の新城俊昭氏は、自著の高等学校『琉球・沖縄史』の中で、「日中戦争がゆきづまりをみせ、アメリカの日米通商条約廃棄によって戦略物資が不足しだすと、日本は本格的に南方進出をくわだてるようになった。これによって、一躍クローズアップされたのが、沖縄の軍事的位置と、移民として南洋諸島に進出していた県人の労働力であった。うらをかえせば、これら南洋移住民の存在が日本の南進政策の布石になったともいえる」と指摘している。

 その指摘は、的を射ていると思いながらも、親や家族に少しでも楽をさせたい、狭いシマを出て、別の世界を切り開いてみたいという、一人ひとりのささやかな、また切実な思いを知るにつけ、それもまた、大切に伝えていきたいと思う。国家という得体の知れないものと、人々の日々の生活感覚との乖離〔かいり〕(にもかかわらず、しっかりと国家に包摂〔ほうせつ〕されていくのだが)を、どのように、とらえたらいいのだろう。それは、現在の基地問題、その他にも、共通する課題だ。歴史を学び、伝え、現在・未来に活かしていくとは、どんなことなのか、改めて考えさせられている。


 前置きが、ずいぶん長くなってしまったが、そのような「南洋」移民の一人として、一九三八(昭和一三)年、二四歳でサイパンに渡航したのが、今年八七歳のソウタイおじぃである。

 ソウタイさんは、一九一四(大正三)年に本部(もとぶ)で生まれ、一九二九(昭和四)年に、家族で、現在住んでいる三原ミチェーガチに移住してきた。異母兄弟も含め、兄弟六人の二番目で、兄は、ソウタイさんより二年前に、移民募集でペリリュー(旧パラオ諸島の一つ)へ行っている(後に同地で病死)。家は貧しく、シマでは、山稼ぎをするくらいしか仕事がなかったので、ソウタイさんは常々、出稼ぎに行きたいと思っていたが、渡航費用を作れずにいた。ところが、サイパンへの移民募集があり、会社の金を借りて行けるということだったので、三原から、ソウタイさんを含む三人が応募した。これは二回目の募集で、一回目にも、ミチェーガチから三人が行っているという(現存者はいない)。

 ソウタイさんたちを雇ったのは、南洋興発という国策会社である。農業部門、漁業部門を持ち、「南洋」の各島々に、農場や工場があった。とりわけサイパンでは規模が大きく、第一〜第四農場があり、製糖工場もあった。

 那覇の港から鹿児島へ渡り、鹿児島から夜汽車で門司へ、門司から船で横浜へ、横浜から五昼夜かかって着いたというサイパンは、ソウタイさんの眼に、どのように映ったのだろうか。

 彼は、直営農場で働くことになった。直営農場には、ソウタイさんたちのような労務(男)だけで、五〇〇人以上が働いており、その九割がウチナーンチュだったという。ほかに、夫婦で小作をしている人たちもいた。

 当時の沖縄での日給は、四〇〜五〇銭だったが、ここでは一円だった。毎月の給料から、渡航費用が天引きされた。仕事はサトウキビ作りで、肥料作り、キビ植え、草取り、培土、キビ刈りと、いろいろな仕事があった。ソウタイさんは、主に、肥料作りに従事した。

 その肥料(堆肥)作りの様子を、ソウタイさんは、身振り手振りをまじえ、「キビの葉を折り畳んで、ぐるぐる巻く」というところでは、身近にあるチラシの紙を、畳んだり、丸めたりしながら、説明してくれる。耳が少し遠いので、私は、耳元で怒鳴るように質問する。

 一人暮らしのソウタイさんは、毎朝、さんぴん茶をたくさん作り、電気ポット一杯に詰めておくのだという。「そうすれば、いちいち立たなくてもすむからね」。勧められるままに、そのお茶をすすると、「お茶、好きだね」と、ソウタイさんは、うれしそうに言って、何度も何度も注いでくれた。

 南洋興発から、日本軍の石油タンクを造る仕事に移り、一九四四(昭和一九)年の米軍上陸による「サイパン陥落」、捕虜収容所を経て、一九四六(昭和二一)年に帰郷するまでの、ソウタイさんの歩みを、次回に報告したい。