【連載】
やんばる便り 7
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)
一九九七年一〇月(名護市民投票の二ヵ月前)に十区の会が結成されてから、私たちは毎年大晦日の夜、瀬嵩(せだけ)の浜に集い、去りゆく年の労をねぎらい、来る年に希望を込めて、初日の出を迎える年越しの行事を行なってきた。昨年一二月に、一九〇〇年代最後の満月に平和への祈りを捧げ、歌や踊りを通して心をひとつにしようと行なわれた「満月まつり」も、今年七月の皆既月食の夜に行なわれた第二回「満月まつり」(この時には、同時開催された韓国・梅香里〔メヒャンリ〕での「満月まつり」および国際連帯集会に弾圧がかかり、住民運動のリーダー六人が不当逮捕されたのは記憶に新しい)も、同じく瀬嵩の浜が舞台だった。
大浦湾の最奥に位置し、米軍キャンプ・シュワブと新たな基地建設の予定海域を望む瀬嵩の浜に、基地問題を学ぼうと、内外から訪れる人々を案内する機会も最近増えたけれど、ここはもともと、古来ムラ人たちが浜下(う)りをし、海の幸を得、月明かりのもとで遊び、ニライカナイに向かって祈った場所なのだ。そして、その浜を見下ろすように、小高い瀬嵩ウタキ(御嶽)の森がある。
海に向かって突き出た瀬嵩ウタキをはさんで、浜はアガリバマ(東浜)とメーバマ(前浜)に分かれている。メーバマの方が波が静かなので、小さな子どもたちは、ここで泳ぎを覚えたという。晴れた日に外から来る人は、海の美しさに感動するようだが、実はこの海もすでに赤土で相当に汚染されている。サンゴは死滅しつつあり、ジュゴンの食べる海草の上にも赤土が積もり、雨の日、海は赤く染まる。日本復帰以降の道路や土地改良などの公共工事に加えて、現在進行中のゴルフ場建設工事がその原因だ。ウタキの神々は、それをどう眺めていらっしゃるのだろうか。
現在、入り口に鳥居が立ち「瀬嵩お宮」と呼ばれているそこが、「お宮」ではなく「ウタキ」だと教えて下さったのは、瀬嵩に住む西平万喜(にしひら・まんき)さん(七九歳)だった。若い頃からムラの歴史に関心の深かった万喜さんの古いノートには、次のように書かれている。
「私が幼少の頃(昭和八〜九年頃)は『お宮拝み』とは言わなかった。『お嶽(ウタキ)拝み』と言っていた。旧正月になると各戸で豚一頭を、又は二戸で一頭殺して正月用のご馳走を作っていたが、その肉のうちから最上級の肉を選んで、ウタキジシとして別にして、元旦の日にその肉を煮て各家庭から三片ずつ供出していた。シシとは肉のことである。昔はウタキを拝してから後で各家で祝ったものである」
ムラを守る神々の在(いま)す山として、ムラ人たちの信仰の対象であったウタキが「お宮」と呼ばれるようになったのは、皇民化運動の盛んだった頃、「紀元二六〇〇年記念事業」としてウタキが増改築された時からだと万喜さんは言う。鳥居が建てられたのもその時だ。これは瀬嵩だけでなく、沖縄各地のウタキや拝所(うがんじょ)に、今も鳥居が残っているのは、伝統的な沖縄のムラの信仰を天皇のもとへ吸収しようとしたその名残である。万喜さんは、「お宮」ではなく「ウタキ」と呼ぶべきだと強調した。
万喜さんのお連れ合いのヨシさん(七七歳)は、十区の会の集会などに時々顔を見せて下さるが、目の見えない万喜さんは、もっぱら家で音楽やラジオを聴いて過ごしているので、ユンタク(おしゃべり)しに行くと、とても喜んで下さる。ヨシさんが「目は見えないけど、口と頭は達者よ。昔のことを何でも良く覚えていて感心するくらい」と言うように、万喜さんが話し始めると、とどまるところを知らない。瀬嵩の歴史から、目が不自由でなかった頃のさまざまな体験、区長を勤めていた頃の話……。小柄だけれど、若い頃は腕っぷしも強く、足も速かったという。
万喜さんの話で私がいちばんおもしろかったのは、瀬嵩ムラの発祥にまつわる話だ。語り継がれてきたものか、万喜さんの推察なのかわからないが(両者のミックスされたものかもしれない)、説得力もあり、シマの原初のイメージをふくらませてくれる。
現在の瀬嵩部落はね、昔は海だったんだ。今の小学校の後ろの森の裾まで波が打ち寄せ、内海になっていた。その証拠に、背後の森の前の畑からは今も、少し掘るとサンゴ砂利が出てくるよ。ウタキの森は、今のように陸続きではなく、離れ小島だった。この小島があったお陰で、その回りにだんだん土砂がたまり、内海が陸地になって草木が繁り、人が住めるようになった。だから、ウタキの森は、瀬嵩の産みの親なんだ。ウタキとして今もあがめられているのは、そういうわけなんだよ。
瀬嵩のムラは耕地面積が少なく、ムラ人がムラの外に糧(かて)を求めて出ていかなくてはならないほど貧しかったので、ウタキの森まで開墾して畑にした時期があったという。「ところが、ムラの若者が次々に死んだり、ムラが荒れてしまったんだ。これは神山を荒らしているからだということで、畑を返還させ、縄を張って入れないようにした。それ以降は、旧の元旦と九月九日の神山の掃除の時以外は入ってはいけないことになった」
やんばるの集落ではヤマジミ、ヤマアキの神(かみ)行事のあるところが多い。ヤマジミ(山閉め)とヤマアキ(山開け)の間は、山に入ってはいけないことになっている。森林資源を守るための禁伐期間だと考えると、昔の人の智恵の深さに感じ入る。ウタキの森も、立ち入りが制限されてきたお陰で、豊かな自然が残ってきたのだ。
しばらくごぶさたしていた万喜さんの語りを聞きたくなって、お宅を訪ねた。いつでも家にいるはずの万喜さんが、何度声をかけても出てくる気配がないので、裏に回ってみると、裏の畑でヨシさんが草取りをしていた。「万喜さんはお休みかしら」と尋ねると、「持病が出て入院しているのよ」との返事。万喜さんを気づかいつつ、ヨシさんとしばらくユンタクする。基地の話から、沖縄戦の時の話になった。
ヨシ
(一九四四年の)一〇・一〇空襲の時は、ここらもみんな機銃掃射でやられたんだよ。朝早く蝶々のようなものが飛んでくると思ったら、飛行機の編隊だったの。
私
このへんもみんな焼けたの?
ヨシ
昔はほとんどカヤブチャー(カヤ葺き屋)だから、よく燃えたよ。金持ちのカーラヤー(瓦屋)だけがわずかに残った。
忘れもしない(一九四五年の)三月二三日、辺野古(へのこ)の方から米軍が上陸してね、それから三ヵ月間、山に隠れていたよ。私はまだ二二〜二三歳でね、小さな子どもを抱えて……。男は年寄りまで防衛隊に取られていたからねぇ。夜になると山を下りてイモを掘ったり。
私
この後ろの山ですか。
ヨシ
そう。初めは部落に近いところにいたけど、それから山奥へ山奥へと逃げた。二〜三歳の子どもたちが、ハシカでどんどん亡くなっていったのよ。後は食べる物もなくなって、草や木の葉まで食べた。桑の葉なんか、みんなが食べるので、木はみんな裸だった。調味料もないから、海の潮水を汲んできて、それで味つけするの。
地元の人間はまだよかったけど、中南部から避難してきた人たちは、ほんとうにかわいそうだった。着の身(み)着の儘(まま)で、ここに来るまでに体力を消耗しきっているでしょ。戦後すぐはマラリヤもはやってね、一人残らず感染したんだけど、体力のない人から死んでいくの。毎日一〇人ぐらいずつ死んで、犬か猫みたいに地面にただ穴を掘って埋めた。
私
山からはどうやって下りてきたの?
ヨシ
アメリカーに捕まったら殺されるとか、ひどい目に遭わされるとか、さんざん聞かされていたから、初めは『出てきなさい』と言われても、誰も出ていかなかった。でも、あるおばあさんが米軍のキャンプに連れていかれて、カンヅメとか食料をたくさん持たされて返されたというのが伝わってきてね、それで一人、また一人と下りてきた。
戦後すぐは、避難民も含めて瀬嵩だけで何千人もの人がいて、一時は瀬嵩市になったのよ。一軒の屋敷に一〇軒くらいのカヤブチャーを建ててね。みんな焼けてしまっているから、山から竹を切ってきて簡単な小さい家を作るの。沖縄の人って頭がいいよね。アメリカーにもらったカンヅメの空き缶で、お椀や鍋を作ったり、カンカラ三線も作ったし。
私
モノがないとジンブン(智恵)が出るのよね。今はモノがありすぎて、みんな頭を使わなくなっている。
ヨシ
ここには那覇、西原、中城(なかぐすく)などあちこちから来た人たちがいたから、少し落ち着いてくると、各部落ごとに村芝居をやったりしてね、にぎやかだったよ。
「戦争はもう絶対イヤだ」「子や孫たちには、あんな思いをさせたくない」と言うヨシさんは、基地を増やして、また戦争を始めようとしている「上の人たち」に腹を立てている。「なんでかねぇ」とくやしがる。
瀬嵩の浜には今日も、太古の昔と変わらず、波が打ち寄せ、太陽が東の海を黄金色に染めて昇ってくる。満月がさざなみを銀色にきらめかせ、ウタキの神々は静かに人々を見守っている。イヤ、人間に愛想を尽かして、とうに逃げ出してしまったかもしれないのだけれど、そう信じることにしよう。戦争などという愚かしい考えを捨て、人と人、人と自然とが調和しあうためのほんとうのジンブンを取り戻すために。
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