軍用地を生活と生産の場に!
 
沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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第115号(2000年8月28日発行)

   陳 述 書

          知 花 昌 一

 私は、楚辺通信所、通称「象の檻」読谷村字波平前原五六七番地に土地を所有しています。
 
土地取得の経過

 「象の檻」の場所は前島・・メージマといいます。私の住むウチジマ(内島)から南=前の方に有ります。二男、三男が分家するとき、家を建てたところです。

 私の土地も、戦前、私の大おじいさんである知花平次郎が住んでいた宅地であります。平次郎じいさんは一九四五年四月一日、米軍が読谷から上陸したとき、娘を逃がす為に竹ヤリで戦い、米軍に撃ち殺され、その場に埋められました。遺骨は戦後まもなく収集され、墓に収められたようです。上陸した米軍は読谷村一帯を占拠し、一九四六年ごろから徐々に波平への帰還が許されるのですが、「象の檻」の地域はそのまま米軍基地に取られてしまいました。フィリピンから捕虜として引き上げてきた私の父、知花昌助が土地を引き継いだときにはすでに米軍基地として占領され、黙認耕作地としてのみ使用されていました。結婚した私の両親は「象の檻」にしか宅地が無かったので、仕方なく、移民で土地を処分する方から購入して今の住所、波平一七四番地に住むようになったのです。

 一九五七年ごろから「象の檻」が建設されたようです。それ以来、私達は自分の土地に一歩も入れない状態が続いてきました。

 一九七二年沖縄が日本になる直前、私の父親は国が賃貸借契約を求めてきたにもかかわらず「象の檻」の地主八〇人と共に契約を拒否し反戦地主になりました。

 ところが日本政府は沖縄にだけ適用する憲法違反の公用地暫定使用法を一九七一年に作り、一九七二年に適用し、土地の強制使用を続けながら、反戦地主への細切れ返還、契約地主との共連れ返還をちらつかせ、地主間の反目を煽り、契約を強要してきました。八〇人いた反戦地主も切り崩され、六〇人になった段階で、一九七六年契約地主と反戦地主との反目が地域共同体に良くないとして、私の父達は不本意ながら契約に応じてしまいました。

 それから二〇年後の契約が切れる直前に、親父から私に、契約するか、拒否するか相談がありました。父親も二〇年前に契約に応じた無念さが有りましたので、契約拒否をする事で一致し、「象の檻」の土地を一九九四年に私に生前贈与することになりました。

 国=那覇防衛施設局は執拗に契約を求めてきましたが、現在まで契約拒否を続けています。

 その理由は、

 一つには、「象の檻」は米軍基地でありこれまでも戦争に使われてきたし、これからも戦争に使われる軍事基地であるということです。

 二つには、「象の檻」が有ることで波平地域が分断され、地域活動が阻害されている。

 三つには、大おじいさんの住宅が有った所であり、おじいさんが米軍に殺され、埋められた大切な土地であること。

 四つには、「象の檻」の私の土地は宅地であり、子供達に住んでほしいと思う。


契約拒否後の国の対応

 契約を拒否すると、国=那覇防衛施設局は執拗に契約を求めながら、一方では「売ってくれ」「値段はいくらでもいい」「色をつけるから」と言ってきましたが、お金の問題ではないと断りました。

 一九九六年三月二六日、私達反戦地主の土地の強制使用にかかわる代理署名を拒否した大田沖縄県知事を被告とした代理署名裁判最高裁判決がでた翌日、「象の檻」の周囲をフェンスで取り囲む工事が早朝から始まり、一〇〇〇メートルの工事が恐ろしいほどの速さで夕方には工事が完了していました。これは国が「安保条約は国の根幹を成すもの」として、憲法を侵しても米軍基地を守る為、何が何でも私の土地を強奪をする事を示したものでした。

 期限切れを迎えた一九九六年四月一日、私は家族と共に自分の土地に入ることを国に要求し、「象の檻」の前まできたのですが、何の根拠も示さず拒否され、警察によって立ち入りを阻止されました。直ちに仮処分申請を行いました。

 四月一日以来、国は一日六七六円を借地料相当分として、毎日二〜三人で現金を持参してきたんですが、貸しても無いのに借地料とはおかしい、違法行為ゆえの損失補償金として持ってくるように要求したのですが、損失補償金ではない、あくまで借地料なんだと言っていました。

 ところが、一九九七年の四月二四日に米軍用地特別措置法の暫定使用適用で、三八九日の不法占拠分二六万円余は損失補償金として持ってきました。国は不法占拠を認めたのです。


 仮処分申請と基地内立ち入り

 四月一日、「自分の土地になんの法的根拠も無く立ち入りを拒否されたことは心外であり、立ち入りを直ちに認めよ」と仮処分の申請をしました。

 国が「象の檻」への立ち入りを拒否する理由として

 1 デリケートな通信施設だから一箇所に多くの人がたむろすると電波障害がおきる。
 2 芝生の下にはアースマットが敷かれているので、踏むと切れる恐れがある。
 3 電波障害が起こるので電気器具や草刈機の持ち込みを禁止している。

 と言うことでした。
 四月一八日、収用委員会の委員が現場検証のときは、一人一人の体重を申告させ、ベニヤ板を敷いて立ち入りを認めたにもかかわらず、四日後、一トンも有る草刈機が走り回っている写真、一二名以上の人がたむろしている写真が見つかり、国の立ち入りを拒否する理由は全てうそだということが明白になった。国は土地収用委員会さえだまそうとしたのです。収用委員会は国の緊急使用申請を却下し、仮処分裁判でも裁判所は国の嘘を確認し、五月一四日、六月二二日の二回の立ち入りを決定したのです。

 使用期限が過ぎ、使用権原を失った国に対して、地主が自分の土地に立ち入り、確認すると言う当然なことが、こんなに困難を伴うとは異常なことであります。

 戦後五〇年、沖縄の歴史の中で、自らの権利として、堂々と米軍基地の正面から立ち入ることは始めてであり、そのうれしさは格別でした。以前だったら米軍に撃ち殺されていたでしょう。私の妻の伯父さんは基地の中に薬莢を拾いにいって米軍に見つかり、銃で撃ち殺されているのです。


 不法占拠しておきながら、米軍用地特別措置法の改悪

 一九九六年四月一日から不法占拠をした国は、世間の非難をかわす為と反戦地主と沖縄側の抵抗を封じる為、米軍用地特別措置法を改悪することを企んだのです。

 この法律は

 1 総理大臣が使用申請をし、土地収用委員会が審議をしている間は使用期限が切れても暫定使用ができる。

 2 期限が切れた土地(私の土地)も遡って暫定使用できる。

 というものでした。

 これは審議の途中でルール(法律)を変えるという卑怯どころか、不遡及の大原則を踏みにじることである。「泥棒が人のものを盗んでおきながら、盗んだ物を使わせろ」ということであり、盗人猛々しいとはこのことである。

 米軍用地特措法が一九九七年四月一七日に国会で成立するとき、傍聴しました。

 世論調査では六五%がこの法律に反対の結果が出たのですが、参議院では八〇%が賛成し、成立してしまいました。私は悔しさに、いたたまれず「土地泥棒」と叫んだだけですが、身柄を拘束されてしまいました。ところが検事側も起訴できる状態ではないとして、たいした取調べも無く釈放されました。

 数の力によって、私達反戦地主の平和への願い、土地を生活と生産の場へとの願いがふみにじられた思いでした。


 使用裁決について

 沖縄県土地収用委員会は一九九八年九月三日に、私の土地に二〇〇一年三月末日までの使用裁決を行いました。これは沖縄に関する特別行動委員会(SACO)の最終報告での「象の檻」の返還時期に合わせたものでしたが、それはまた、憲法違反の米軍用地特別措置法を追認するものであり、残念でなりません。


 新たな強制使用申請手続きの始まり

 国は二〇〇〇年四月に入り、私に新たに賃貸借契約を結ぶよう、意思確認にやってきました。SACOも、収用委員会も二〇〇一年三月末日を返還約束し、裁決しているのになぜ契約を求めるか問いただすと、移設先の準備がまだであるとの事でした。契約を拒否すると、早速強制使用手続きに入ることを発表しました。五月二日意見書を提出してあります。


 結語
 一九九九年四月二四日に楚辺通信所返還跡地利用地主会を四四一人で結成し、返還後の跡地利用の策定に入っています。

 一九九七年四月に米海軍省から「象の檻」の解隊命令書が発せられ、一九九八年六月海軍の活動が停止されました。今は維持管理を米民間会社が受けおっているのみです。

 もはや私の土地を強制的に使用する必要性はありません。