軍用地を生活と生産の場に!
 
沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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第114号(2000年7月28日発行)

ドキュメント

  人間の鎖 嘉手納基地包囲

 二○日朝一一時、那覇で弁当、飲み物を買い入れ、関東ブロックの集合場所である嘉手納町のバス停に向かう。嘉手納基地に差しかかると、すでに基地に沿って労働組合などの集合点をしめすのぼりや横断幕が準備されている。

 バス停で車を降りる。暑い!(ただし東京のような、不快な人工的な暑さとはちがうが)。一二時半すぎ、集合できた十数人で現地一坪地主会との集合点である「安保の見える丘」に向かう。約1.5キロ、ほとんど平和市民連絡会の受け持ち地域の端からから端までの移動となる。移動を始めたころには、バスや車で続々と参加者が到着してくる。樹木の陰、町役場のロビー、嘉手納警察署の門前まで、所かまわず日陰という所には人がいる。

 ヘリ基地反対協は大型バスをチャーターし三○○人以上が参加するらしい、地元の嘉手納基地爆音防止訴訟の原告団が宣伝カーを出して集合している。(原告団の組織参加は初めてだが千人が参加したとのことだ)

 女たちのメッセージが書き込まれたカラフルなハンカチが、歩道の上に延々とつり下げられ、風に舞っている。本土の市民グループも大勢参加している。

 安保の見える丘にはひっきりなしに人々が出入りし、周辺では内外の報道陣が、あちこちで参加者にインタビューしている。空には、多数の取材陣のヘリコプターが爆音を轟かせて飛び交っている。

 丘の周辺は人が多すぎ、結局引き返すことになった。「基地にレッドカード」の気持ちを込めた赤いリボンをもらって、少し戻った所で一坪の浦添ブロックと合流、そこで一回目の包囲行動に臨むことになる。

 午後二時、一回目の包囲行動、何かぎこちない、あれ、これでいいのという感じ。人が足りなくて繋がらないところがあったらしく、再度移動することになる、浦添ブロックとともに今度はかなり戻る。二時半に二度目の包囲行動。カメラの望遠レンズで右、左を確認したが見える限りでは完全に繋がっているようだが。三回目の包囲行動の三時が近づくと、「そのまま右に移動してください」の声が、そして三回目の包囲行動、みんなが手を繋ぎ高くかかげると「完全包囲に成功しました」と宣伝カー。笑顔と歓声の中、丘の方向から何度も何度もウエーブがやってくる。

 二万七千人という、これまでで最も多い参加があった今回の嘉手納基地包囲行動だが、ゲート前などは二重三重に人があふれてしまい、どうしても手薄な地区ができてなかなか繋がらなかったようだ。しかし、あっと言う間の三回、一時間だった。

 沖縄から世界に発する平和の声は、サミット八ヶ国の手前勝手な宣言を霞ませ、世界に大きく広がった。壁を取り払い、軍用地を生活と生産の場へするための、新しい、大きな一歩が踏み出された。


 ※ 平和市民連絡会の分担の地区は、延々と高い(四〜五メートル?)コンクリートの壁が基地を隠していて、わずかに格納庫の丸い屋根が見える程度、だれかが「要塞」と言っていた。町を隔てる高い壁は、日本政府のいわゆる「思いやり予算」で作られた。また、金網の低いフェンスの箇所では米兵がカービン銃を持って警戒している所もあったという。          
(II) 


嘉手納のエーサーに
     活気づく未来を見た

 「人間の鎖」行動の前半に、平和市民連絡会の宣伝カーで、本部の元那覇市議・島田さんと共にフェンスの周り四分の一を往復した。

 いつもと違う風景に、「あれ?」と目をこらした。それは、嘉手納町の割り当て地区に、青年会のエーサー隊が登場していたからだ。町の八六%を軍事基地にとられ、ベトナム戦争終了後はゴーストタウン化した地区もあった程だったが、若者がこんなにもいたのか、と胸が騒いだ。「各地でエーサー隊を出した」という人。商工会の事務局の人は「偶然そうなったのではないか、各地区の取り組みに任せているので特に指示はしていない」と話す。いずれにしても、華やかで活気があってよかった。基地経済に依存する現状と、基地包囲で基地なき未来を思う活気が、二面性を見せて
(Na)  

(注 二才達:ニーセーター=若者達)