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第113号(2000年6月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 4
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 瀬嵩に住む伊波和子さんを訪ねたのは、梅雨の晴れ間の太陽がまぶしい朝だった。昔ながらの木造の家は風がよく通ってここちよい。敷地内の別棟に住む息子さんと二人暮らしだ。「息子たちが、古いから建て替えようと言うんだけどね、私が生きているうちはこのままにしておいてほしいと言っているの。この家が好きだから」

 和子さんは一九〇八年生まれの九二歳。瀬嵩とは山を隔てた大川に生まれ、結婚後、教員をしていた夫の転勤で、やんばる各地をまわり、一九四三年、瀬嵩にある久志小学校の校長として赴任した夫とともに、瀬嵩に移り住んだ。瀬嵩は、町村合併(一九七一年に一町四村が合併して名護市になった)以前の久志村の中心地で、現在も名護市の支所、郵便局、警察官駐在所などがある。私たち十区の会は支所ホールや瀬嵩の公民館を借りて集会や勉強会などを行うことが多いのだが、そこにはいつも和子さんの姿がある。新聞投書なども積極的にやり、みんなが敬愛しているオバァだ。
 ヘルパーさんが家の掃除をしにきたので、公民館裏のあずまやに移動することにした。和子さん宅のすぐ向かいだ。あずまやのコンクリート製のテーブルと椅子の埃を払おうと和子さんがちぎった桑の葉っぱから、カマキリの赤ちゃんがテーブルの上に転がり出た。「かわいいね」と、小さなカマキリが一生懸命這っていくのを見やりながら、和子さんは話し始めた。

和子
「希望を捨ててはいないけど、(保守が大勝した県議選の)選挙結果を見て、思わず新聞をバンミカシテ(たたきつけて)しまったさ。反対運動や集会にも若い人が集まらなくて情けないですよ。しかたないとあきらめているのかねぇ。年寄りは頑固だから、こうと思ったらそれを捨てきれないんだけどね」

 「今の若者たちは生まれたときから基地があるし、モノは豊かになっているからね」
和子
「これまでもキャンプ・シュワブがあってたいへんだったのに、なぜ、必ず沖縄に基地をつくらなければならないの? 一五年期限なんて、稲嶺さんはできもしないことを言っているけど、あれは見せかけだけよ。もし、できたとしても、一五年使ったら海は汚染されきってしまいますよ」

 沖縄戦で和子さんは、夫と子ども一人を失った。一九四五年四月七日、隣の大浦に米軍が上陸してきた。ムラの後ろの山に避難して直接の爆撃や戦火は免れたが、山中で幼い子どもを亡くした。食べ物や薬にも事欠き、雨露をしのぐのも不十分な避難生活の中で、体力のない者、幼い者たちから病気や栄養失調で死んでいったのだ。マラリアが蔓延し、大川では一日二〇名ずつが亡くなったという。米軍が山にマラリア菌を撒いたのではないかと和子さんは今でも疑っている。「米兵たちは、食後に必ずキニーネ(マラリアの特効薬)を飲んでいたらしいからね」

 そのマラリアで、和子さんのお連れ合いも亡くなった。米軍占領当初、この地域には大規模な民間人の収容所が設置され、人口がふくれ上がって、各字(あざ)が「市」に昇格した一時期がある。校長だった夫は最初、大川市の市長に任命され、次に近隣の「市」をまとめて瀬嵩市(二年くらい続いたという)になると、市会議員を務めたが、マラリアには勝てず、四〇歳で亡くなった。

和子
「残された六人の子どもを育てなければならないから、悲しんでいる暇もなかったですよ。幼稚園の仕事があったので、最初はそれをしばらくやった。その後、ずっと定年まで社会福祉の仕事をやったの。当初は軍の雇用で、あとで琉球政府に移されたけど、各村に一人ずつ、なるべく未亡人から雇うということだった」

「社会福祉の仕事っていうと?」
和子
「ちょうど生活保護の始まりのころだったの。生活保護法など福祉三法ができてね。保護所帯の申請があると、その家に出掛けて行って、調査や生活指導をやるんだけど、当時は道もよくないし、バスも便が少ないうえに途中までしか行かないし、ひたすら歩くしかなかった。真っ黒に日焼けしてね」

「久志村全部を回ったんですか? うわぁ、たいへんねぇ。こんなに広いんだもの」
和子
「しかも、保護を申請するような家は、たいてい山の奥とかへんぴなところにあるのよ。夜の山道を女一人で歩いて、よくハブにやられなかったものだなぁと思うさ。泊まりがけになることもありましたよ」

 「救済おばさん」と呼ばれた和子さんを精神的に支えたのはキリスト教だった。戦後しばらく瀬嵩にあったカヤ葺き屋根の教会で、和子さんは洗礼を受けた。「信仰があったからやってこれた」と和子さんは言う。真っ暗な夜道は、賛美歌を歌いながら歩いた。

 若い頃は字の婦人会長、村の婦人会長を長年務め、その後も八〇歳過ぎまで老人会長を務めた。「九〇歳を過ぎると人の盛衰がよく見える。やっぱり悪いことをしたらいけないよ」と言う和子さんの最大の気がかりは、やはり基地の問題だ。

和子
「自分はもう先は長くないからいいけど、これから生きていく若い人たちのことを考えると、基地は絶対つくらせてはいけない。この頃、海がますますきれいに見えるのよ。(基地をつくればジュゴンの餌場がなくなるということに対して)市長は海草を移植すると言っているようだけど、ここがいいと言って生えている海草をどうやって移すことができるの? 自然は変えられない。市長の言うことは子どもだましよ。

 県議選で暗くなったけど、ここ二〜三日は、朝鮮問題が明るいね。二人の金さんの笑顔を見たら期待できそう。日本も、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国のこと)とも中国とも仲良くすれば、基地なんかいらないのに。でも、これからはいい方向にいくかもしれないね」

「いつも不思議に思うんだけど、オジィよりオバァの方が潔いというか、はっきりしているのはどうしてかしら」
和子 「私もガージュー(頑固)だからね。でも、女が一人で生きていくためにはそうならざるをえなかったわけさぁ」

 ガージューは長生きの秘訣? 和子さん、これからもますますお元気で、私たちにも元気をおすそ分けしてくださいネ。

     (編集部注 瀬嵩の読みは「せだけ」)