2004年8月

沖縄・辺野古の海上基地建設問題

ボーリング調査阻止の諸活動とジュゴン訴訟

真喜志好一(Makisi Yoshkazu)
沖縄環境ネットワーク・世話人
★はじめに
 米軍基地の存在と、米軍の活動のために不平等な地位協定が日米間で取り交わされている。それで、次のような環境問題が沖縄の人々を苦しめている。
 地位協定や、騒音被害の有害科学物資による汚染の報告は新垣勉弁護士や砂川かおり(沖縄環境ネットワーク世話人)が詳しい報告を行う。ここでは、新たな基地建設の問題に絞って報告する。

★日米両政府による在沖米軍基地強化策の背景
 つらいことだが、1995年9月に発生した3名の米兵による少女暴行事件を思い起こすことから始めなければ沖縄の米軍基地問題を語ることができない。その事件が、米軍基地のフェンスを風景の一部として受け入れていた私たちを目覚めさせたからである。

 少女暴行事件の後、沖縄県民は米軍基地の整理・縮小を求める声を高めた。基地への風当たりが強くなる中、日米両政府はその年11月、「沖縄に関する特別行動委員会」、通称SACO(the Special Action Committee on Okinawa)を発足させた。それから5ヶ月足らずの96年4月、県内への移設条件付き基地返還をうたったSACO中間報告を経て、12月に最終報告(以後SACO合意という)を出した。

 わずか5ヶ月足らずで、普天間返還という重要な事柄が決められるものなのだろうか。この疑問からSACO合意の背景に隠されている事実を米軍の文書から解き明かすための研究会を市民グループで立ち上げた。沖縄県立公文書館(Okinawa Prefectural Archibs)が米国から取り寄せた膨大な文書は同館の初代館長であった宮城悦二郎(Miyagi Etujirou)先生(元琉球大学教授2004年6月7日没)が精力的に点検した。一連の作業を経て、私たちは次の結論に至った。SACO合意とは、基地を返還すると見せかけて実は米軍基地をr統合・強化・近代化」する計画だ、ということである。
 
★整理縮小要求を逆手に基地機能を強化
 SACO合意文書に記されている返還米軍基地リストの順序はばらばらにみえる。それを米軍の側にたって整理してみると、米軍の意図が明らかになる。地図に示すように、3つのグループにすっきりと分類できる。

 第1のグループは、基地の近代化を図っていることが明らかな施設群。建ててから40年以上経過した病院や住宅、通信施設を別の基地内に新設して、その跡地を返還するというグループである。楚辺通信所(象のオリ)、瀬名波通信所、海軍病院があるキャンプ桑江の一部、キャンプ瑞慶覧の一部である。

 第2のグループは、米軍の長期計画を隠して、『沖縄県民の要求だから」と説明されている那覇軍港と普天間飛行場の移設条件付き返還である。

 第3のグループは、新鋭機オスプリの訓練場を作る意図が隠されている北部訓練場、安波訓練場、ギンバル訓練場の返還である。

 ここでは、辺野古の海上基地建設問題にしぽる。市街地の真ん中にあって危険な普天間飛行場を返還し、その代わりに辺野古の海上に基地建設を行う、と日米両政府は説明している。しかし、それは説明が逆である。「辺野古に海上基地を建設する代わりに普天間を返還する」というのが隠された真実だ。


★辺野古海上基地は米軍の長期計画
 1972年の沖縄の施政権返還にあたって、米軍基地の移設や返還問題を検討した1970年1月に作られた米軍の文書を沖縄県立公文書館で宮城氏が見つけたのが辺野古問題の謎をとくきっかけになった。それには、ベトナム戦争の最中である1965年に、新たな飛行場建設の適地を調査したと記され、その一つが辺野古海上の埋立てであった。

 その調査を元に、海兵隊は辺野古埋立て飛行場計画図を1966年1月に描いたのが右の図である。遠浅の辺野古の海を埋め、3000mの滑走路を作る計画であった。北に隣接する大浦湾は深いので、海兵隊が描いた飛行場計画にかぶせて、海軍は軍港を計画し、分厚い計画書を残している。海軍の計画図は共同通信がスクープし、2001年6月2日に配信している。

 SACO合意で、海上基地の建設位置が辺野古に決まった後、1997年9月29日付けで、米国防総省は、辺野古の海上基地についての構想をまとめている。「日本国沖縄における普天間海兵隊航空基地の移設のための国防総省の運用条件及び運用構想・最終案(Operational Requirements and Concept of Operations for MCAS Futeoa Relocation,Okinawa,Jap{m,FinalDraft,September29,1997)」という文書である。その中にある図面を右に示す。長い原文タイトルの冒頭にあるOperational Requirementsから、97年ORと呼ぶことにする。この97年ORには、滑走路の方位は66年の計画に基づく、と記されている。さらに飛行場に加えて、沖合いに突き出した桟橋まで描いている。つまり、辺野古の海上航空基地計画は、66年の海兵隊の埋立て計画、海軍の軍港計画から今日まで、米軍が温め続けてきた長期計画と言えるのだ。

 2002年7月、日本政府は陸上部と2本の道路、もしくは橋で繋がった埋立て計画を決めた。(右上図)これは97年ORに示された米国防総省の要求を反映させた結果であることは明らかである。

★普天間は危険で、老朽化している
 2004年2月13日、「普天間飛行場米『代替なしで返還も』日本に打診」という毎日新聞の注目すべき報道があった。日本政府は例のごとくメディアにも、国会でもこの打診の存在を否定している。関連して琉球新報2月21日の記事を引用する。県関係者によると、ラムズフェルド国防長官は昨年11月の沖縄訪問の際、普天間飛行場を視察し「危険だ。そして、老朽化している」と指摘、一方で辺野古沖を見て「美しい海だ」と漏らした。長官は、同行した米軍幹部に代替施設の完成時期を質問したが、誰一人明確に答えられず、「返還合意から8年もたっているのに」と険しい表情を見せたという。

 「危険だ。」という発言は、ラムズフェルドが最初ではない。普天間基地司令官は、着任時や離任時に市長らを招いて挨拶のパーティを開くのだそうだ。それらのパーティを取材した記者によると、歴代の基地司令官が離任にあたって「普天間飛行場は密集した市街地の中にあって、危険で軍事空港として欠陥である。」と挨拶している、という。

 米軍は、嘉手納基地やキャンプ・シュワブなど、それぞれの基地ごとに中、長期計画のマスタープランをつくり、基地機能の維持、近代化を常に図っているという。「情報公開法でとらえた沖縄の米軍」の著者、梅林宏道氏によると、普天間基地については『マスタープランは存在しない。」という回答が帰ってくるという。これらの発言が許されている点や、マスタープランの不存在から、普天間は放棄するという米軍の上位計画がありそうだが、それを見つけることができるかどうか、大きな課題である。


★普天間「代替」という欺瞞にのるメディア
 これまでに集めた文書によって、1965年以降、今日まで連綿と繋がっている米軍の計画を明らかにした。普天間の「代替」ではなく「新たな」海上基地の建設なのだが、マスメディアによる追跡調査はない。日米両政府は、辺野古海上への基地建設計画を、普天問飛行場「代替施設」と称している。そしてマスメディアは政府発表のまま普天間飛行場「代替施設」との見出しをつけた記事を流し続けている。

 進歩的で沖縄通だという有名な東京のキャスターがテレビで、普天間飛行場「代替施設」問題を解説する。そのたびに、「あらたな海上基地」の建設計画なのだという私たちの主張が見えなくなり、「代替施設」なのだ、という日本政府の国民をだます表現が人々の頭にインプットされる。

 新聞をはじめとして、マスメディアの見出しからは、「普天間代替」という定冠詞が離れない。マスメディアには、真実を取材し、報道してほしい。

★名護市民投票の民意はNO!
 1997年12月21日に行われた住民投票で、名護市民は海上基地建設に反対という決議を成功させた。その時に国、那覇防衛施設局(Naha Defense Facility of Administratlon(NDFA),anagency of the Japanese Defense Agency)は、200名もの職員を動員し、10日間にわたり名護市内のホテルに投宿させた。彼らは、「辺野古の海上基地は安全で、北部地域の振興につながる」というカラー刷りのパンフレットを全世帯に配布したのだ。日本政府が名護市民の住民自治に介入したのだ。また、名護市内の数箇所で行われた国・防衛施設庁の説明会では「MV22オスプレイの配備はアメリカ政府から聞いていない」とのウソの説明をくり返した。こういう国による市民自治への介入やウソをはねのけて、名護市民の過半数が、海上基地建設に反対する投票を行った。

 この住民投票で示された民意を覆すことは民主主義に反する。それで、名護市長選挙や沖縄県知事選挙などで基地建設を容認する候補者を日本政府は応援した。こうして誕生した沖縄県知事や名護市長らに強引に海上基地建設の受け入れを表明させた。

 97年12月の住民投票から4年7ヶ月後、02年7月29日に、日本政府は埋立て位置などを決めた。首相官邸で開かれた協議会の概要はhttp://www.kantei.go.jp/jp/singi/hutenma/で知ることができる。

★国の環境アセス法違反
 2003年3月、那覇防衛施設局は、「護岸構造検討に必要なデータをするための現地技術調査」と称して海底地形の調査に着手する一方で、県からの許可が必要なボーリング調査は、03年11月に県の土建部河川課に「公共用財産使用許可申請」を出した。

 ところがこのボーリング調査は、環境影響評価法(アセス法)でいう地形地質の調査にあたり、すでに行った地形調査もふくめて、アセス法の最初の手続きである「方法書・Public Scoping」に記載し、住民に縦覧する必要がある。その上で住民の意見、関係市町村長と県知事の意見を聴き、調査の方法を決めて着手するべきなのだ。しかし日本政府は、この環境アセスメント法を逸脱する解釈をしている。

 護岸単独ではアセス法の対象事業ではない。それで、「護岸工法を検討する事前調査だからアセス法とは無関係だ」と国・那覇防衛施設局は主張している。残念なことに環境省も沖縄県も、防衛施設庁に押し切られたのか、rボーリング調査はアセス法の対象ではない」という解釈である。

'★ボーリング調査阻止の座り込み
 2004年4月19日、未明、那覇防衛施設局員と工事業者ら数十人が辺野古漁港に来た。ボーリング調査の資材置き場を設置するためである。辺野古の住民と支援者らで、ボーリング調査の不当性を訴え、かつ非暴力直接行動で防衛施設局職員らを追い返した。それ以来、今日まで漁港入り口にテントを張って座り込みを続けている。雨の日も、風の日も、暑い日も市民的不服従運動は続いている。92歳の老婆は、日本政府が、海上基地建設を断念するまで続けると語っている。

★第1回IEMEから生まれた米国でのジュゴン訴訟
 2003年3月19日、最初のr軍事活動と環境に関する国際ワークショップ(Intemational Workshop on Military Activities and the Environment/IWME」が沖縄で開催された。

 ところで、沖縄島の周りの海に、ジュゴンが生息している。その数は50頭ほどと推測されている。辺野古の海上基地建設が計画されている海もジュゴンが餌の海草を食べている場所である。それで、ジュゴンを守る運動グループも複数ある。

 日本環境法律家連盟(Japan EnvirpmentaI Lawyers Federation/JELF)もジュゴン保護の活動を始めていた。事務局長・籠橋隆明(Kagohashi Takaaki)弁護士は、ジュゴンを守るために、米国での裁判を検討し、沖縄のジュゴン保護グループに働きかけていた。それで、国際ワークショップのシンポジウムの一つに、「米国の種の保存法とジュゴン保護(The Enddengered Species Act in USA and the Protection of Dugong)」を開いた。

 パネリストは、米国の生物多様性センター(Center for Biological Diversity/CBD)のピーター・ガルビン(PeしerGalvin)さん、日本環境法律家連盟(Japan Environmental Lawyers Federation/JELF)の籠橋隆明(KagohashiTakaaki)弁護士、南山(Nanzan)大学の目崎茂和(Mezaki Shigekazu)教授であった。このシンポジウムがきっかけになってアメリカでの訴訟が実現した。

 2003年8月、サンフランシスコで、JELFの弁護士らと、ピーター氏やマルチェロ・モロ(Marcello Mollo)弁護士らの訴訟の検討会が開かれた。そして9月26日(日本時間)、カリフォルニア州オークランドで提訴するにいたった。

★原告はジュゴンほか、被告ラムズフェルドと国防総省
 ジュゴンを原告の先頭にして、アメリカ側からは『生物多様性センター」「タートルアイランド回復ネットワーク(Turtle Island Restoration Network)」が参加している。沖縄からは「ジュゴンネットワーク沖縄(Dugpg Network Okinawa)」、「ジュゴン保護基金委員会(Save the Dugong Foundation)」、「ヘリポート建設阻止脇議会・命を守る会(Committee Against Heliport Society/Save Life Society)」の3団体と3個人、それに「日本環境法律家連盟」が原告として名を連ねている。アメリカの弁護士たちと環境保護団体に支えられての裁判である。

 米国のNational Historic Preservation Act「国家歴史保存法(NHPA)」に違反しているという訴訟である。この法律は、アメリカが国外で行う活動において、当事国の文化財保護法で保護されている物事については、当事国の法律を遵守すべし、と規定しているという。

 ジュゴンは、日本の文化財保護法で天然記念物に指定されており、捕獲や生息環境を乱すことなどが禁じられている。辺野古海上基地計画について、米国防総省がまとめた97年ORを証拠として提出している。この文書には、ジュゴンの保護政策について何の記載もない。それで、「国家歴史保存法」にしたがって、97年ORにジュゴンヘの悪影響を回避するための方策を示せ、(つまりは基地建設を断念せよ)と求める裁判である。

★被告ラムズフェルドの答弁書
 2003年12月9日付けでラムズフェルド国防長官側からの答弁書が出た。大まかに2つの反論が記載されている。
 ひとつは、1972年まではアメリカが沖縄に基地を建設し使用してきた。しかし、72年の沖縄の施政権返還後は、日米地位脇定にもとづいて日本政府が基地をつくり、それをアメリカに提供している。したがって辺野古の基地建設にはアメリカ政府は関与していないと主張している。

 もうひとつは、「97年ORを日本政府が無視している」という不思議な主張である。ラムズフェルド側は、日本政府が97年ORを無視し、2002年7月に埋め立て計画を作ったのであり、従ってアメリカ政府の関与はない、というのだ。
 しかし答弁書でラムズフェルド側が自ら説明しているように、72年までは沖縄での基地建設に日本政府は関与できなかったのだから、66年の埋め立て計画は米国海兵隊の独自の計画である。

 また冒頭で記したように、滑走路の方位について66年の計画を97年ORで引用し、日本政府は97年ORに従って、飛行場と陸上部とが2つの道路、もしくは橋によって結ぶ計画を作っている。このように米国の計画が連綿と受け継がれている、と私たちは主張している。

 8月4日に聴聞会が開かれ、JELFから7名の弁護士、沖縄から原告ら3名が参加した。50名ほどの傍聴席が満席であったという。

 米政府は、2001年にもORを作成し、日本政府に渡しているという。裁判長から8月21日までに法廷に出すように命じられているという。私たち原告の手にも入るのかは不透明である。

 辺野古での海上基地建設に、米政府の関与が存在するかどうかの判断は、これから数ヶ月のうちに出されるとの見通しである。裁判長の良い判断を待っているところである。

★アメリカの新たな狙いは?
 毎日新聞などが報じた「普天間は代替施設なしでも返還」という、ラムズフェルド国防長官らの発言の背景を考えるのに、アメリカ政府が米軍基地を強化し、近代化するときに使ってきた手法が参考になる。

 1964年の東京オリンピックの時に、東京・都心部の米軍基地を神奈川などに移しており、オリンピック作戦と呼んだという。

 沖縄でも72年の返還直後に、那覇空港や那覇市周辺にあった米軍の家族住宅を移設し、外国や本土からの訪問者の目から米軍基地を隠した。

 1996年の「沖縄に関する特別行動委員会(略称SACO)」での合意。これも「基地の整理縮小」を名目にして、米国は辺野古での海上基地建設を目論んでいることは冒頭で記した。

 こういう常套手段からして、アメリカ政府高官の発言と言われる「辺野古は断念し、普天間は返還する」という日本政府への打診は、本土にある米軍基地の拡充、あるいは自衛隊基地の共同使用、とりわけ岩国の基地機能強化といった取引を睨んでの発言と思われる。

 韓国でも、沖縄でのSACO合意と同じような米軍の計画:「ランド・パートナーシップ・プラン(LPP、連合土地管理計画)」が進行している。いかにも韓国政府・国民と米軍が、互いに仲良く土地を住み分けるような名称をつけている。

 この計画はソウル市内や近郊、38度線付近の老朽化した米軍基地、あるいは不必要になった訓練場を返し、代わりの基地を建設するという内容と聞く。その移設費用についても韓国政府に負担を強いるという。新たな基地建設を食い止める。そのために力をあわせよう。



出典:真喜志好一氏のレジメ(辺野古現地の報告会 2004年9月4日 文京シビックセンター)