普天間閉鎖、辺野古への移設白紙撤回 要請書
「出てきた子が、2年の6月に帰らぬ人となったのです。家族にとって、年が重なる毎に、悲しみは深まるとおっしゃいます。その間中あちらこちらで、線香の匂いがしました。今日は病院から連れて帰るんだ、この子は助からないんだ、といってあちらこちらで線香の匂いがいたしました。
直った子供で記憶喪失の子もいます。4年生になっても3年生の時の怪我が、かけ算も全部忘れてしまいました。五十音もわすれました。その前のことは、あなたの受け持ちは誰だったでしょう、といったって思い出せません。記憶は全然ないそうです。それから、その当時は助かったけれども、何年後に体のケロイドのために皮膚ガンで亡くなった方もいます。
いくら賠償の金を積まれても、いくらお詫びを言われても遺族の気持ちは、変わらないと思います。今沖縄に基地ある限り、絶対の安全と言うことはありません。私たちはそういう悲しみを二度と味わないために、平和な島にして欲しいと思います。どうも有り難うございます。(拍手)」
2004年8月23日、座りこみ勝利127日目、防衛施設庁申し入れ78回目の日に。
13日の金曜日に起こった米海兵隊大型ヘリの墜落事故以来、沖縄の島中の人々と私たちの怒りは増すばかりです。それは、事故の惨状と危険性もさることながら、事故後の米軍の対応が、余りにも沖縄人の人権を無視した、占領軍然としたものだからです。
そして、普天間基地の閉鎖、辺野古への移設撤回を求める私たちに対して、到々米軍は、事故機と同型の大型ヘリを「イラクの自由作戦」へ出動させてしまいました。イラクの民衆を殺す作戦に、普天間基地が事故の後も公然と使用されるといった状況を、私たちは断じて容認できません。
その結果、今、普天間基地には数機しか残っていない現実が生まれていることから、伊波宜野湾市長が強く要求しているように、今後、普天間基地への帰着を阻止し、閉鎖に追い込むことに全力を傾ける決意です。
上記の文章は、1959年6月に起こった、石川市宮森小学校で被災した教師の告発です。二度と大災事を起こさせないことが、防衛施設庁・日本政府の重大な責任であることを自覚し、普天間閉鎖、辺野古への移設白紙撤回を強く要請します。
2004年8月23日
命どぅ宝ネットワーク 太田 武二