From: "辺野古命を守る会" <henoko@f5.dion.ne.jp>
To: <"Undisclosed-Recipient:;;"@mx-list.jca.ne.jp>
Date: Sun, 22 Aug 2004 22:11:49 +0900
Subject: [keystone 9196] 阻止行動125日目
X-BeenThere: keystone@list.jca.apc.org
8月21日(土)
・防衛施設局は来ませんでした。
防衛施設局はこの1週間の間、一度も座り込みに訪れていません。今、施設局が来な
いのは墜落事故以後に変わった状況の中で沖縄の人々の全てからものすごい批難を浴
びるからだと思っています。
今日は座り込みに行くと「宮守小学校の戦闘機墜落事故」のことが話しが出ていまし
た。
1959年6月30日。事件当時沖縄は米軍の占領下にありました。そして、しか
し、今も。
事件が起こった直後多くの人達が真実を明かすべく必死になって写真などに記録しま
した。しかし、すぐに米軍にフィルムを引き抜かれほとんどの記録が闇へと葬られま
した。
しかし、人々の記憶の中にそして沖縄の人々の魂の中に深く深く傷跡と怒りが残され
ています。その事件の当時に宮森小学校にいた方達、そして遺族の方達の胸の中で今
回の「沖国大米軍ヘリ墜落事件」は事件の再来だということです。それを思うとた
だ、ただ怒りと謝罪の気持ちです。
県外の報道を見ていると「負傷者が出なくて幸い」と今回の事件もまた闇へと葬ろう
という動きがあります。
ネットで宮森小学校ジェット機墜落事件のことを検索していると当時宮森小学校で教
師をしていた新里律子さんの講演録を公開したページがありました。
公開した方は「この文章を敢えて公開いたします」としています。
私達は余りに安易に沖縄の人々から「平和学習」という形で話を聞いてしまっていま
す。その怒りや絶望や苦しみを受止めずに。
しかし、私は今回の事件への怒りとそしてそれを勇気に変え、この現実と向き合い、
闘うために新里律子さんの講演録を敢えて日誌に載せます。
この事件において「恐怖の中」に貶められた人々がたくさんいること。恐怖の中で怒
りという勇気を見出し、立ち上がった人達と共に私は辺野古にあります。
私もまた一人の人間としてこの闘いに声を上げます。私達の世代の子供達にこんなこ
とを背負わせないために。
新里律子:
あのスライドございませんので、明かりをお願いいたします。
わたくしは恩納村の恩納に住んでおります。もと小学校教員をしておりました。
名前は新里律子でございます。
まず、本題に入ります前に、宮森小学校戦闘機事故で亡くなられた遺族の方々
に、お断りをしてから、演題に入りたいと思います。と、申しますの は、わたく
しは昨日まで、今日のためのお話の原稿を書いておりました。その中には、この
部分はちょっと話せない、削除しなくてはいけない、という 部分が多々ございま
した。ところが、今日この会場に入りましたとたんに、その考えは変わりました
。わたくしは苦しい中で、あの当時の様子を詳しく述べることが、遺族への償い
かと思います。つきまして、当時の模様を赤裸々にお話申し上げることをお許し
いただきたいと思います。
では、本題に入ります。1959年6月30日、私は宮森小学校で4年1組の担任を
しておりました。いつものように、平和なのどかな朝が始まり、平和な学園生活
で、みんなも嬉々として一日を迎えていました。当時わたくしは29才。結婚した
てで、お腹の中には6カ月の赤ちゃんを身ごもっておりました。ちょうど10時20
分頃だったんです。いつもは、子どもたちを教室から早めに出すものを、その日
は、ミルクの時間に雑務が食い込みまして、不幸中の幸いとでもいうんでしょう
か、外に出す時間が食い込んでおりました。さて、雑務を終えて、ミルクの時間
に入りました時に、当番の子供が、「ミルクいただきます」といって、一杯飲み
かけた時に、どっかーん。すごい音が教室中を揺らせました。
なんだろう。子どもたちは、席を蹴って、ミルクをこぼして私の教壇の前に集
まりました。ひょっと、西側の入り口の屋根の上を見ますと、真っ黒い物体が屋
根の一角にぶら下がっております。私はとっさに、これは、不発弾だなと思いま
した。あれが落ちたら教室はこっぱ微塵だ。子供を避難させなくてはいけない。
とっさに思いました。子どもたちは、「先生、カバンどうしますか。」こういう
事態になっても、子どもたちは自分のカバンというのを、カバンの心配をしまし
た。「カバンはいいから、後で取りにくるから、みんな安全な避難場所に避難し
ましょう。」といって、先頭の子供たちは、順序良く出口から出ていきました。
わたくしは最後に教室の全体を見回して、1人の子供も残っていないかなと思っ
て、最後に教室から出ていきました。
するとどうでしょう、わたくしの前の、2年生の教室の前から、4、5名の子供
が火だるまになって飛び出してきました。髪はぼうぼうと燃えて、洋服がぱちぱ
ちと燃えております。最後にパンツのヒモが……。私はこの状態を見ても消すこ
とができませんでした。パンツのヒモが燃えて、最後に、水道のところでパタッ
と倒れました。じゅうという煙に混ざった水の音にわたしはびっくりしました。
子どもたちは欠けたガラスの上を、火の上を、踏みながら安全な場所へと歩いて
いきました。
職員室の前に来ました。まるたんぼうのように、真っ赤に焼けただれた男の子
か女の子かわからないような子が、手足だけが丸くなって煙をはいております。
2階の方から、当時の教頭先生が、女の子を抱いて降りてらっしゃいます。6年生
の女の子、頭のほうが大怪我をしています。到底助からないと素人の目にも映り
ました。教頭先生が真っ白いワイシャツを真っ赤な血で染めながら、この子を抱
いて泣きながら降りてらっしゃいました。
それでも私は自分のクラスの子供が36名、無事に一箇所に集まってくれました
ので、そちらへ行きますと、1人の男の子が、「先生足が痛い。」ミルク当番で、
ミルク受けを持った子供が、足が痛いと。見ましたら、運動ズボンの足の下の皮
が全部剥げているんです。生皮が剥げて、真っ赤に、血はでてない。「あなたは
重油をかぶったんだね。お母さんはお家にいるから、お家に帰ってお母さんと病
院に行って頂戴。」
もう1人の女の子は頭から血がざあざあと流れてきました。この子は、窓側の
窓ガラスで頭に怪我を負っていました。髪をあげるとたいした怪我ではありませ
んでしたので、もっていたハンカチで押さえてあげて、「あなたも怪我はたいし
たことはないね、お家にかえりなさいよ。」やっとのことで、それだけを言って、
家に帰えしました。
そして、残りの生徒は全部無事だということが、わたくしは分かりましたので、
お腹の子供がちょっと下がり気味でしたので、運動場の一画で座っていました。
しばらくしますと、いろんな親たちが子供の名前を呼んで、子どもたちは親の名
前を呼んで、地獄絵さながらでした。
ヘリコプターは空中から飛んできます。後で分かったんですけれども、わたし
の教室も、屋根の、煉瓦の屋根がめくり取られておりました。そして、教室をこ
すって、2階の教室に、機体の一部が、6年の教室に入り込んだのです。担任の先
生が、肩を、機体の一部で、肩を打たれて、その瞬間は痛みもなにも気づきませ
んでした。自分のクラスの子が、機体の下になって、あの、プレハブ教室の、セ
メントの中に、血だらけになって亡くなりました。
児童11名、一般の方が6名、17名が亡くなりました。さらに、210名という重
軽傷者がいました。
わたくしたちは職員としての務めをはたすべく、一生懸命頑張りました。1人
の女の先生が流産しました。当時の校長先生は、ショックのあまり、病気に倒れ
ました。それから、一番多くの犠牲者を出された女の先生は、教室にいて、自分
は助かって、大勢の子供が亡くなったり、怪我をしたり、苦しい気持ちをこらえ
ながら、各遺族の家を回りました。そして、この先生は、戦争の体験で、満州引
き揚げ者でいらっしゃいました。主人と2人の息子を満州でなくしました。自分
は満人に犯されないように、顔に炭をぬり、縁の下にもぐっては難を逃れてきた。
そんなふうな苦しみを越えてきたのに、またこのような悲しみにあうとは。先生
は毎日このことで、苦しんでおられました。先生はこの苦しみを胸のなかに秘め
ながら、去年亡くなりました。自分の体は琉球大学の医学部に献体をなさったと
聞いております。
さて、当時の事故は、思い出すのも悲しいことでございます。遺族の方々は38
年を過ぎても、まだ苦しみをこらえております。去年いった、あの、2年生の女の
子の、亡くなった女の子の家庭でびっくりしたことがありました。「先生、これ見
て下さい。」といって見せてくれたのは、なんと、その子供の1年生の時の皆出席
証だったんです。1年の時に病気もせずに、このように健康で1日も欠席しないで
学校出てきた子が、2年の6月に帰らぬ人となったのです。家族にとって、年が重な
る毎に、悲しみは深まるとおっしゃいます。その間中あちらこちらで、線香の匂い
がしました。今日は病院から連れて帰るんだ、この子は助からないんだ、といって
あちらこちらで線香の匂いがいたしました。
直った子供で記憶喪失の子もいます。4年生になっても3年生の時の怪我が、か
け算も全部忘れてしまいました。五十音もわすれました。その前のことは、あな
たの受け持ちは誰だったでしょう、といったって思い出せません。記憶は全然な
いそうです。それから、その当時は助かったけれども、何年後に体のケロイドの
ために皮膚ガンで亡くなった方もいます。
いくら賠償の金を積まれても、いくらお詫びを言われても遺族の気持ちは、変
わらないと思います。今沖縄に基地ある限り、絶対の安全と言うことはありませ
ん。私たちはそういう悲しみを二度と味わないために、平和な島にして欲しいと
思います。どうも有り難うございます。(拍手)