From: "辺野古命を守る会" <henoko@f5.dion.ne.jp>
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Date: Thu, 30 Dec 2004 23:18:18 +0900

Subject: [keystone 10101] 阻止行動日誌254日目。富田晋。
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12月28日(水)
・防衛施設局による違法な強行調査は行なわれていません。

今朝はゆっくりとした朝を迎えられました。
今朝の新聞紙面において防衛施設局は「年内の掘削作業を断念。27日以降の作業は
行なわない。年始は5日以降の作業再開とする。」と発表しています。
発表の通り、今日は警戒船一隻しか海上には出ておらず、私達も海上には出ていませ
ん。
そして、防衛施設局はスパット台船の設置に伴って海底にあるさんご礁の破壊を認め
ました。11月の時点では「サンゴとサンゴ礁は違う。破壊されたサンゴはすでに死
んでいた。」などと開き直っていましたが、「30数箇所の岩礁の破壊が認められ
る。」としました。「岩礁の破砕」は環境アセスメント法の適用を意味します。
県側は「だから、県は環境には配慮しなさいと言っているじゃないか。」と意味のわ
からない開き直りを繰り返しています。国と県が法律違反をしている可能性をこれか
らも追求していく必要があると考えます。
27日(火)にはボーリング調査差し止めを求める訴訟が起こされています。もちろ
んのことですが、私も原告団の一人です。現在緊急の呼びかけにもかかわらず68名
もの人々が原告団として名乗りを上げています。

・基地建設に反対する市民や団体、近隣海域の漁業者が調査差し止めを要求する理由
「ボーリング調査によって、原告らの人格権や環境権、平和的生存権が侵害、または
侵害される危険が切迫している」
「新基地建設と一体であるだけでなく、極めて大規模な工事を伴い、それ自体が自然
環境に重大な影響をもたらす環境影響評価法違反」
「漁業者は漁業権の侵害」


・激動の1年を振り返る。(私から見た一年を。)

自分自身にとっても本当に激動の1年でした。振り返りたいと思います。

本年よりもさらに1年前、防衛施設局が「ボーリング調査の事前調査を行なう」とし
て1997年以来初めて辺野古に襲い掛かった2003年4月8日午前6時30分。
多くの思いのある人々が現場の漁港に間に合うことが出来ず、漁港に立ち、防衛施設
局に立ち向かったのは私を含めたったの6人でした。
その時の金城祐冶さん(命を守る会代表)の後姿は今でも忘れられません。「ここは
辺野古だ!!私は辺野古の人間だ!!防衛施設局員よ、私に説明する責任があるだろ
う!!説明しなさい。」祐治さんが必死に訴える。現場にいた人間は後に続きまし
た。
しかし、この8年間説明責任を果たしていない防衛施設局(国)は辺野古の住人であ
る祐治さん含め、私達を除け者扱いし、防衛施設局員数人の手によって排除しまし
た。
目の前で資材が積まれ、作業船が出て行く。何も出来ない。何も出来なかった!!
「歴史が動く時はいつもストレスよ。したたかにね。」その時に私に平良えつみさん
がかけてくださった言葉は忘れない。負けてはならない、全ての国の生きる人々のた
めに。私は漁港でくやし涙を流しながら立ち尽くしていました。

自分がなぜ辺野古にいるのか。とても問われた日でもありました。
「わったー達が倒れても種1つでも木一本でもそこに残っていいればこの闘いはわっ
たーたーの勝ちさ!!」おばぁの言葉が心にこだまする。
私が沖縄に強いてきた現実。私は大和人として大和でも沖縄でも責任をとる。私はお
ばぁ達と共に生き、闘うことを本気になって決めた日でした。

この状況を変えるため。多くの人達が沖縄中、日本中で行動を開始しました。
辺野古では「金曜集会」(米総領事館前で基地撤去を訴えて毎週金曜日に沖縄の女性
たちが集会を開いています。「金曜集会」も韓国のハルモニ達が日本大使館に向かっ
て開いている「水曜集会」を学び作られたものです。)に学び「土曜浜集会」が始ま
り、そこで「カヌー隊」が作られます。
辺野古の状況を知らない人々に伝えるとても大事な作業を本当に丁寧に多くの人達が
行い、人を繋げてくれました。

そして、2005年4月19日午前5時。防衛施設局が「ボーリング調査に着手」す
るとした日(具体的にはボーリング調査のための資材ヤードを辺野古漁港に強行建設
しようとした。)。私は祐治さんと共に発表があった19日より3日前から命を守る
会事務所に泊まり込みをしていました。その日、期待と不安感でドキドキしながら事
務所を開けたのを思い出します。
「一体何人の人々が駆けつけてくれているのだろうか。」
事務所を開けると200名人達がすでに待ち構えていたのです。涙の出る思いでし
た。沖縄の怒りが基地建設を止めるために、この国を変えるために立ち上がった瞬間
でした。
午前5時30分に乗り込んできた防衛施設局をみんなで止め、だまし討ち的に2度の
強行に打って出た防衛施設局をまたも止めました。
それから144日間に渡って完全に調査を止め、海にさえ出させない状況を作り出し
ました。県民の80%がこの基地建設に反対の声を上げ、「基地建設反対」を打ち出
して糸数慶子さんが衆議院議員に当選しました。
防衛施設局は座り込み「テント村」を週の内の3日は「表敬訪問」し、「作業をさせ
ろ」と言ってきます。私達が「説明をしていただきたい。この8年間一度として国は
私達に説明責任を果たしたのですか。」と住民説明会を再三に渡って要求しても防衛
施設局(国)は一方的に「作業をさせろ」の一点ばりでした。それでもテント村の人
達は人間としての誠意を防衛施設局に見せ続けました。
国と言えど人間同士なんだからわかりあえるはずだと。

座り込みには一日一日、日増しに人は増え、沖縄中からの支援や、全国の人々が駆け
つけました。そこではこれからの時代や国に必要な大切なことが話し合われていまし
た。辺野古の闘いの中で育まれているものはもしかすると次の世界を作るためのもの
なのかもしれません。毎日が希望に溢れている辺野古です。

座り込みが始まった4月19日から144日目、9月9日。防衛施設局は日米政府の
要求に応えるため、調査に着手できない現実に焦り、沖縄の80%の人の思いを踏み
にじり、ついにボーリング調査に着手するために作業船を動かします。卑怯にも作業
船は沖縄の南部に位置する佐敷町の馬天港からの出港でした。辺野古漁港からは大型
船数隻が作業船の警戒にあたるために出港。
私達も作業を止めるために阻止船2隻とカヌー9艇で向かい打ちます。
警戒船4隻をダミーに使い、作業船2隻が作業を着工するというとてもとても卑怯な
手を使ってポイントブイを落とす作業に入りました。
防衛施設局は「作業を開始した」という既成事実を作るためだけに6つのポイントブ
イをおとしました。
それから現在にいたるまでの熾烈なくい打ちをさせないための攻防戦が始まります。

9月9日以降ヤグラ建設のための調査を止め続けていました。防衛施設局はでたらめ
な調査にもかかわらず「ボーリングヤグラ建設のための調査は終了」と発表。11月
16日外洋のくい打ちのための作業台船を辺野古へと突入させてきました。
私を含む2隻の阻止船が作業台船の前に入り辺野古への突入を阻止しようと試みまし
た。防衛施設局(国)が「阻止船をつぶせ」という指示を出したのか、作業台船は速
力を落とさずまさに私達を潰しにかかってきました。阻止船2隻は作業台船に激突さ
れ、2度にわたって転覆しそうになり、私は「死」を覚悟するほどでした。
その時の様子を11月16日の日誌に「死を覚悟した時に「生き抜いて帰って来い」
おじぃ、おばぁたちの声が聞こえました。生き抜かなければいけない!!死ねない!!声
を上げながら無理やり、ハンドルを左に切り、何とか体制を取り戻し、作業台船に飲
み込まれそうになる船をそこから離しました。」と私自身が書いています。
その後も阻止船に乗っていた2人が作業台船の前に飛び込み作業台船にアンカーを降
ろさせとめました。アンカーを降ろしても作業台船は勢いで止まることが出来ず、3
0メートルほど進み、危うく2人が作業台船の下敷きになるところでした。2人の
とっさの判断が功を奏し生命が奪われることはありませんでした。その時に作業台船
の上にいた作業員達は薄笑いを浮かべていました。私達が死に掛けている時に・・・
この基地建設が戦争と同じく作業員の人格さえも破壊していることを痛感させられる
出来事でもありました。
私達が阻止船を出す前におばぁ達が海の神に祈りを捧げてくれていました。私は何よ
りもその姿に心打たれ、おばぁ達の姿勢が「もうだめだ・・」と思った弱い自分をカ
バーしてくれたのです。この闘いは「生き抜かなければならない」生き抜かなければ
勝ちではないことを思います。
愛する人のために生命を賭ける覚悟。しかし、愛する人のために生き抜くという覚
悟。
私の愛する全ての人達を守るとは生き抜いて初めて証明されていくものだと感じてい
ます。

防衛施設局はその後も強行的にヤグラ建設を行い、1ヶ月に渡ってカヌー及び阻止船
を使ってとめ続けました。


12月29日に続く・・・