過去20年間、ソマリアは内戦下にあった。その結果、都市、農村経済ともに破壊された。その上、ソマリアは、飢饉に直面している。これまで数ヵ月、数千人が栄養失調で餓死した。現在、数百万人の命が危険に晒されている。マスメディアは、この飢饉を猛烈な旱魃のせいにしている。しかし、重要なことは、真の原因を追求することである。
1.ソマリアは自給自足の国だった
ソマリアは牧畜の国であった。経済は人口の50%を占める遊牧民と小農民との間の物々交換によって成り立っていた。
70年代、遊牧民の「定住計画」が始まり、その中から、小規模の商業的牧畜業が発達した。畜産品の輸出は、1983年に至るまで、ソマリアの輸出の80%に上っていた。しばしば旱魃に見舞われたが、それでもソマリアは、食糧の自給国であった。
2.IMF・世銀の介入
1980年はじめ、IMF・世銀の介入が始まった。その結果、ソマリアの農業は危機に陥った。経済改革によって、ソマリアの遊牧民と小農民との間の脆弱な交換システムは崩壊した。さらに、パリ・クラブは2国間債務を返済させるために、厳しい緊縮政策を押し付けた。しかし、ソマリアの債務の大半はIMF・世銀など国際金融機関からの借り入れであった。
1970年代半ばから80年代半ばの間、構造調整プログラムによって、ソマリアの輸入穀物への依存度が高まった。その間、ソマリアに対する食糧援助は年に30%増、すなわち10年間で15倍に増加した。工業製品の輸入も増大したが、とくに米国の安い米と小麦の余剰農産物が洪水のように流入し、それに、穀物市場を規制緩和したため、ソマリア人の農業を破産させただけでなく、とうもろこしと雑穀という伝統的な食文化をも変えてしまった。
1981年6月、IMFが押し付けた「ソマリア・シリング」の通貨切り下げが、燃料、肥料、農機具の高騰を招いた。これは、とくに降雨に依存している自然農業に打撃を与えた。物価高のせいで、都市部では消費が落ち込んだ。道路や橋などのインフラは、壊れたまま放置された。
また、この間、政府高官、軍人、富裕な商人たちが、最良の灌漑農地を農民から収奪した。彼らは食糧生産をやめ、輸出向けの果物、野菜、菜種油、綿花など“高付加価値”作物の生産に変えた。
3.IMF介入がもたらしたもの
1980年代はじめ、通貨切り下げによって、輸入家畜ワクチンが値上がりした。世銀は、遊牧民の家畜に、有料のワクチン接種を奨励した。それまで、畜産省が無料で供給していたワクチンは、自由市場にまかされることになった。これは、家畜の健康の民営化だった。同時に、旱魃時に輸入しなければならなくなった飼料が高騰した。
その結果は明白である。人口の50%を占める遊牧民の牧畜業は、解体された。これは、世銀が目論んだ伝統的な物々交換制度の一掃という“隠されたプログラム”であった。世銀によれば、「サヘル地域の遊牧民の牧畜業は、環境破壊の要因となっている」と言う。
ソマリアの牛肉は、それまでサウジアラビアなど湾岸地域に輸出されていたが、オーストラリアとEUからの輸入に取って代わった。とくに、サウジアラビアは、ソマリアの牛の疫病を理由に輸入を禁止していたが、疫病が一掃されても、禁輸令を解かなかった。
さらに、EUから輸出補助金漬けの安い牛肉が、無関税で輸入された。これもソマリアの牧畜業の破産を加速させた。
IMF・世銀のソマリア政府の財政政策に対する介入によって、食糧生産は崩壊した。灌漑など農業インフラに対する予算の支出は、1975年に比べて85%減となった。IMFは、ソマリア政府が、国債を発行するなど、国内資金を動員することを阻止した。それは、「財政赤字を防ぐため」という理由であった。
ドナー(援助国)は、資本や機材ではなく、食糧援助を増やした。これを、ソマリア政府は国内市場で売り、それで、開発を図るというのが、口実だった。1980年代初めには、援助食糧の売り上げは政府予算の主要な財源となった。このことで、ドナーはソマリアの政府の政策に自由に介入した。
4.人びとの生活の破壊
このような経済改革は、当然のことながら、保健衛生と教育プログラムの崩壊につながった。1989年には、保健衛生と教育予算は、1975年レベルの78%減となった。世銀によると、教育予算は、小学生年間1人当たり、1882年に年間82ドルであったものが、1989年にはわずか4ドルに減った。1981〜89年間に、就学率は41%減となった。教室から、教科書や教材が消え、校舎は老朽化し、4分の1の学校が閉鎖となった。教師の賃金は、極端に安くなった。
IMF・世銀の構造調整プログラムは、遊牧民国家を破壊した。さらに、通貨切り下げで牛肉の輸出額が減り、さらに、湾岸地域に出稼ぎに行っているソマリア人労働者の送金額も減った。これは、ソマリアの経常収支の悪化をもたらした。
世銀の調査によると、1989年には、1975年に比較すると、公務員の賃金は、90%も下落した。公務員の平均賃金は、月に3ドルとなった。これは行政機能の低下をもたらした。世銀は、公務員の賃金の適正化を図ったが、それには、公務員の40%解雇、賃金外手当てを削減するという条件がついていた。このプログラムによって、1995年に、人口600万の国の公務員数はたった25,000人になった。
1991年1月、バレ将軍政権は崩壊した。その後に続いた内戦中も、IMF・世銀は、なお緊縮政策と中央銀行の改革、金融機関の民営化、国営企業の解体を要求した。
1989年、ソマリアの債務返済額は輸出の194.6%に上った。IMFはソマリアの累積債務を帳消しにした。また世銀は、1989年6月、7,000万ドルの構造調整融資を約束した。しかし、数ヵ月後、構造調整プログラムを実施していないという理由で、融資を凍結した。ソマリアは債務返済と構造調整プログラムによって、轡をはめられた時状態に置かれた。
5.結論
ソマリアの飢饉が、食糧不足に由来するものでないことが、明らかである。むしろ、IMF・世銀の構造調整プログラム、食糧援助、輸出補助金漬けの安い牛肉の輸入、国内市場の規制緩和など、農産物の過剰供給が飢饉をもたらした要因である。
気候変動という外的要因が引き金になったとしても、グローバリゼーション時代の飢饉は「人為」である。 |